超宇宙の仕組みを解くモデル概念

目次

第一部
未来人へのメッセージ・・・

元(1983年)の論文 古代科学と現代科学を架橋する宇宙構造モデル概念・・・
はじめに ・・・
1. 当宇宙構造モデルを考え るにあたって・・・
2. 基礎研究・・・
3. モデルの基本的仕組み・・・
4. モデル概念の原理的検討・・・
(一)時間・・・
(二)光子と虚光子、そして量子化現象・・・
(三)プログラムの情報構造・・・
(四)情報上に記述された変化と保存別・・・
(五)情報構造とマクロな現象・・・
(六)プログラムは観測者を基点にして実行される・・・
(七)異なる時空の間の相互作用・・・
(八)精神作用と現象への関わり方・・・
(九)高密度記録ホログラムから生ずる雑音・・・
(十)無限階層宇宙と光子、時間、空間、物質の階層的関係・・・
(十一)プログラムを索引してくる意識体「索引念体」・・・
(十二) 我々の宇宙史の展開に関わる起空間生命体の発生と分化・・・
(十三)UFOのメカニズムと意識体の力関係・・・
(十四)ホログラフィー的現実世界の臨場感の理由・・・
(十五)意識体(霊、幽、肉体)と意識場・・・
(十六)細胞レベルに封じられている宇宙の基本的仕組み・・・

5. 総括・・・
6. 例示と解釈・・・
ノイマン型コンピューターをベースにして 推測できること・・・
7. 古代思想との整合・・・
8. 般若心経 解釈・・・
9. おわりに・・・
10. つなぎ・・・
第二部
元(1984年)の論文 死(ニアデス体験)を科学する・・・
ニアデス体験の共通牲に見る原型的手続きの潜在・・・
バルド・ソドルに書かれる原型的手続き・・・
死後の身体と現象 ・・・
バルド体の性質と対処・・・
精髄句(導引の知恵の言葉)・・・
ソドルのいう知性とは・・・
輪廻の中の経験世界の本質・・・
大宇宙の構造・・・
夢と潜在意識の解釈・・・
意識の連続・・・
人間界の誕生の仕組み・・・
心霊の問題・・・
総じて経験世界の意義・・・

雑感
超宇宙の仕組みモデルから想像できるこんなこと・・・
タイムマシンなど当たり前
人生のプレイバック&リスタートが利くはず
映画「マトリックス」との出会い・・・
PCの醸すバーチャル世界創造の進歩とその先に見えるものは・・・
最新の科学情報から・・・

拙論の発想に至るきっかけ・・・
神様は人類よりどれほど進化なさって いるか・・・
モデルたるコンピューターの進化の行く末を見れば宇宙へと辿り着く・・・
未来予測をしてみよう
当モデル概念を用いた未来予測・・・
未来人が神のふりをしてやってきている可能性あり・・・
神を名乗るほどに未来の人は進化するのか・・・
ヒトラーが見た神人支配の千年王国・・・
総合して、旧人類の滅亡と、新人類の勃興の過渡期に何が あったか、おおよそ推測がつきました・・・
それでも先の未来に展開しておかねばならないわけとは・・・

神人たちは、過去レコードから、少なくとも二つの時代を繰り返し用いて いる・・・
ノストラダムス詩篇10巻74篇は神人千年王国登場の前夜について語る・・・
そのような存在に遺しておきたい格言・・・


未来人へのメッセージ

この試論は、未来人へのメッセージのようなものになるかと思います。2025年以降に登場してくる候補作品として、ひとつ立候補してお きたい仮説です。

未来を語るに、一定の雛形を想定することがたいせつです。そのようなとき、もっとも参考になるのが、世を主導する立場の人が提唱したシナリオと言われるものです。私が参考にしたのは、決して全貌でも詳細でもありませんでしょうが、以下のサイトもしくは類義サイトからのものです。

http://www.yamaguchi.net/archives/005560.html

すでに、前世紀の末尾で映画「マトリックス」が上映開始となり、新世紀の初頭には世の中がその卓越性に驚いたことも事実です。そこで私は、世の主導者たち の新思想として擁立されるべきものの方向性が示されたと理解したしだいです。
ところで、私はマトリックスより遡ること20年前には、当時の旧式コンピューターによってでも、この世界がシミュレートできるという試論を構築しており、1983年にはある研究団体から発表もしているのです。そして、その有効性については、検証のための設備などのない私には無理なことでも、昨 今の科学の新しい動きから察してみれば、かなり有望ではないかと確信しております。

宇宙ホログラム説 [「宇宙のホログラフィック原理」] の検証実験がアメリカの
フェルミ研究所で開始される

2010.11.4 THU News


>「宇宙ホログラム説」、超高精度の時計で検証へ


>われわれの存在は、超高解像度の3D映像のようなもの であり、有限の帯域幅で「コーディング」することが可能なのかもしれない。そして、われわれの愛するおなじみの3次元は、2次元での情報をホログラムのように投影したものにすぎないのかもしれない。

いま(2013)理論物理学では、、宇宙ホログラム説、多世界並行宇宙説、多次元時空論などが出され、真剣に検証実験が
なされようというところまできてお ります。

未来には、未来にふさわしい、あっと驚くような科学的発見があるべきであり、それによって人々の考え方が、驚天動地の覆り方を見せるほどでなくてはなりません。従来の価値観はむろん、社会における生き方に至るまで、いったんゼロクリアーしてからかからなくてはならないほどの衝撃が世界を襲わねばなりませ ん。

基礎資料として提案するモデル概念は、宇宙の運行の真相を鳥瞰的に捉える超宇宙的発想により、これらの説の捉え方を平易にするだけでなく、実際論としてそ のような超宇宙的仕組みの存在を予見するものともなっています。

すなわち、これがもし超宇宙の仕組みそのものであるなら、我々は壮大なイリュージョンの世界を、自らのプロセッサ的仕組みにより、決定論的にすでに存在するある種のソフトウェアをもとに、演算実行し、その結果を組み立てて外界として認識するということまでを行っているところの、一種の超越的コンピューター であるという実像に辿り着くことでしょう。

それは生命ではないというのではありません。偉大な生命原理が、このような機能モデルで説明できるということなのです。

 

古代科学と現代科学を架橋する
宇宙構造モデル概念

(これは、1983年に公開された日本サイ科学会研究論文
「超宇宙の仕組みを考えるためのモデル概念」の増補版です。

はじめに

 古代の物理学観は我々の世界はもとより、はるか神の領域 にまで思索を及ぽし、神を中心存在として秩序立った体系をもっていた。その取り扱う範囲から言えば、現代の物理学の対象とする領域を包含する関係にあったことは確かである。そして科学の発達の経移からみても現代物理学の基礎原理は多く古代の索引から得られており、その上に詳細な発見物をつけ加えて今日に至っているというのが実情である。

 しかし、近、現代物理学は観測可能なもの、証左のあるも の、公理や規定に基づき推測できるものといった公認の枠を設定し、そのらち外にある古代的科学観を排除した。このことは初め、様々な不合理性や迷信を排し、多くの発明とそれによる文化の発達という良いものを生みつづけてこの方向づけに間違いはないと思われた。ところが、進化論と相まって人類至上主義が幅をきかせ、今ほど自然を我が物顔で踏みにじることが平然とおこなわれている時代も無い。人は精神の無い科学観と繋がりのない知識情報の氾濫の中で本質を見る目さえも摘まれようとしている感
がある。いつもトラブル発生の後に反省し改めようとする傾向もまるで自然現象であるかの如く理論化されたりしている。これらは実に奇妙な現象である。

 倫理観念の欠如、昨今の教育の荒廃、心的不安など挙げれ ばきりがないが一重に物質的豊かさの反面、精神的に虚無であることを如実に物語る現象ではあるまいか。これら現代の半病的有様は最小限、古代思想が持っていた「全能の神により生かしめられている」という認識に立つだけで改善していくはずのものである。神が本当に在るのか、と言われるむきもあろうが、古代思想は神を認識させるための膨大な知識体系と神に接近するための実践論を持っていた。これらのものが不合理の名のもとに一ベつもされなくなってから既に久しいのである。

 本源に立ち帰らねばならない。
不可知であっても神の存在 に意義を見出す動きが科学の中に出てこなくてはならない。そのためには科学的態度が表面的追求から脱して内奥の本質を穿つ方向に進路がとられねばならない。それが難しいことなら、現代と 古代の科学観の融合をはかってゆくことが望ましいと思われる。

 話は変わるが、ここで現代の謎とされるUFO現象を考え てみよう。地球外知性の乗物であるといわれるこの不思議な飛行体は、人類に現状のゆきがかりを改めるよう注告を与えているといわれる。筆者は中でも、その運動形態に新たなものの嘱望されていることを窺い知ることができた。アメリカで起きたUFO現象に図4.1のような成りゆきをしたものがある。各コマは右記時間経過後の光体の変化を示し ているものとする。


この解説は至って簡単である。四次元時空上に十手型に横たわった物体を時刻tの断面でスライスして目撃していたというわけである(図4・2)だが、このような変則的物体を四次元時空に置くという所業は五次元的なことではありはしないか。この後、UFOは米空軍のヘリコプターのまわりを旋回して推進原理の明らかな違いを見せつけて去ったという。

五次元時空、これは表面観察を続ける現代物理学では認め乾い言葉である。逆に今は黙殺されている古代科学なら得意とするところであった。そして現代物理学すら全体の中の一部にすぎないと言うであろう。この皮肉に我々の歴史の負った業のようなものを感ぜざるを得ない。しかし、考えようによりけりである。この両者が合すれば、やがて〃活”となる。そしてそのような変革が今、内外から要求されてい ると思われる。

 幸い、古代科学は現代科学の扱う領域を包含する関係にあ る。そして現代科学は可観測な仕組みを詳細に考えているに対し、古代科学はむしろその外周から無限の神域までの非可観測な仕組みを概括的に与えている。このため、融合は互いの主義を闘わ せながらも比較的容易であろうと思われるのである。

 もし古代思想を充分に説明できて、なおかつ現代物理学と 整合性の保てる新旧統合の物理理論ができたら画期的なことである。そのときには現代の抱える諸余の問題を考えれば、少なくとも古代思想の積極的な再検討が図られるべきであろう。拙論は、そのような現代という時代の暗黙の要請に基づいて提案する一つの試案である。

 その前に、古代思想特有の基幹概念に少なくとも次のよう なものがあることを述べておこ う。

1、超空間(現実世界とは別の天界や冥界など)
2、原型的世界(理念、アカシックレコードの存在領域)
3、意識
4、霊

 これらのことは現代物理学では全く解き得ない。1が解け ないとUFO現象は説明できな い。
 2は物理学的土台をくつがえすものであるゆえに一べつも与えら れないだろう。すると3以降が説明困難となってくる。拙論はそのような中に新しいモデルに基づく新物理概念を展開し、これらの問題を統一的に解明しようとするものである。
 
 

1. 当宇宙構造モデルを考え
るにあたって

 現代物理学が自然界に不変の法則性を見出すべく努力する 根拠には、自然界を運行せしめるある種のメカニズムの前提的な想定があるからに他ならない。それなら一層のこと、コンピューターのようなものを法則の担い手として、現象の背後に仮定して物事を考え直してみてはどうだろう。そう考え、一つの宇宙構造に関するモデル試案を構築した。

 概略骨子を述べると、現象は超
越的なコンピューター的メ カニズムにより、原型プログラムが実行された結果、生じていると仮定していることである。このときのコンピューターとは銀河、超銀河のマクロコスモスから人間それ以下のミクロコスモスの精神部分であり、それらが連合して矛盾のない宇宙の運行がおこなわれていると考えるものである。

 なお、ここで取り上げるものは、一般的な数理的モデルで はなく、機能モデルであり、しかもモデルの構成要素が単純なものではないので、一般に受け入れ難いものであるに違いない。加えて、現状の四次元時空の物理観からすれば、背後のメカニズムなどの存在する余地は無いというのが大かたの見解であろう。

 だが最近、ある方面からこれを可能してくれる概念のある ことが分かった。アメリカのミサイル工学の専門家であるトーマス・ベアデンの創案した超空間概念である。彼は、エベレット理論などを根拠にUFOを含む超自然現象を統一的に扱うことのできるモデル概念を発展させているが、筆者の考え方とは共通するところがあるので多く参考にすることとした。
拙モデルの中核をなすコンピューターとは、ベアデンの考え方を流用すれば、超空間にある有機的精神物体ということになろうか。

 ところで、どうしてコンピューターなどを模型にしなくて はならなかったのか。少なくとも精神の領域を語ろうとするのに無感動冷酷な金属物体でおこなうとは何事かとお叱かりを受けるかも知れない。
古代思想で基本的に言明されているのは、「人間は神の模倣」、詳しく言うと「大字宙と人間は同じ仕組みで作られ、神はそれらの世界を包み、かつ融合している」ということである。このことは幾多の民族に共通した思想ともなっている。もっと古い伝承によると、「最も原初の頃、人は神と対等であった」とさえ記されている。

 人を神や事績をあらわす模型として科学する方法が古代に あったことも確かであろう。それは多く、人間に内在する神的部分の拡大と意識的接近にふりむけられ、現在において隆盛することとなった瞑想学を登場させた。しかし学問の側で、人間という有機生命体をつかって表現することは非常に複雑で難しく、現代のように人間の機能の細部まで理解されるような時代となったといえども、それは不可能なことであった。古代においては、その局部的なエッセンスを拙出して、積極的にモデル化が図られたようである。

 カバラでは「生命の木」のモデルがあり、それは宇宙にも 人間にも適用されるとしている。
またインドでは「マンダラ」があり、やはりこれも宇宙(如来)と人間の両本性を結びつけるシンボルとされた。それらは瞑想のためにも用いられたが、重要な学究的モデルでもあった。それはシンボライズされなくてはならない理由があったのであり、筆者は、人間をモデルにすると余計に不鮮明になるということを揚げたい。だが、人間をモデルにする方法が、今もしあったならば・・・。

 現代に至りバイオニクスの成果が実り、人間は自分に似せ て多くの機械を発明した。中でもコンピューターは人間の中枢的機能を模倣し、いつでも機器的構成図などの形で機能が明確に把めるようになっている。宇宙の模倣が人間で、その模倣がコン
ピューターなら、コンピューターモデルで宇宙が説明できるのではなかろうか。

 物理学は最近とみに物事を観念的に扱えなくなり、数理的 手法に頼るようになった。ミクロの状態記述にはやたらと演算子が登場してくるようになった。筆者の予想では恐らく近いうちに物事は情報とその演算によって成立しているのだと物理学は結論 するだろう。

 またマクロを扱う生物学においても、行動生物学は動植物 の本能の世界を支配するのは信号と反応の連鎖、すなわち情報伝達とその情報に規定された手順の発動のくり返しで成るのみであることを発見している。人間の場合、創造性や伝達系の錯誤などにより、極めて異例の行動様式を備えているが、それでも基本的には同じである。

 自然界における反応系、人間をはじめ、生物の行動、さら に原子・分子の動き、各種保存則の成立などを考えると、情報伝達を抜きにしては語れないのであり、その有機的機能体であるコンピューター的反応形態は汎ゆる生命現象の根底をなす基本原理と言っても良いものである。人間は本来、生化学的コンピューターとしての性能を持っている。そして現行のコンピューターは人間の仕組みを判り易くする便宜 的手法でもあることを理解願いたいのである。

 では、次に拙モデルを支持してくれそうな一風変わった傍 証を掲げておこう。五井昌久氏を通じて宇宙人のもたらした知識情報の中には現象生成がまるで磁気コアメモリを磁化するような方法でなされているというものがあった。また超能力者ユリ・ゲラーはスペクトラムとかロンバス四次元とか名乗る超空間上のコンピューターから知識やエネルギーを受け取っていたという。また、ヨーガをはじめ、古代インド哲学でいうアカシックレコードとは、予め設定されている現象生成のプログラムのようである。それは過去・現在・未来に渡って歴史のなりゆく様やありうべ
き知識が理念の世界に予め存在しているというものである。予言者や発明家が随時に情報を得るというところがそれだ。

 古事記にも、現象生成の仕組みがコンピューターと相似の 開係にあることが述べられている。「思金の神」は山田久延彦氏の言われるようにコンピユー夕ー。この神の親が「高御産巣日の神」すなわち現象運行の摂理とされているのである。つまり、 両者は機能的に相似の関係にあるというわけである。
次の表は拙古事記解釈から抜粋したものである。

 
 

2. 基礎研究

 量子論では、時間とエネルギー の間には不確定性関係が成 立っているから、極めて短い時間にはエネルギー保存則を満たさない過程も起りうるとされる。このため、電子などは短時的には仮想的な光子を放出吸収していると考えることができる。これは、仮想的プロセスなのであるが、運動量変化に伴う光子放出や、相互作用を考える上で欠かせないものとなっている。
陽子や中性子でもπ中間子を出し入れしており、 核力の理由とされている。

 仮想光子に対し筆者は実質的意 義として、次のように想定 したい。それは、粒子というものが、ある種の励起状態にあるものを言い、その元となるものが観測にはかからないが存在しており、仮想光子は元のものを粒子に励起する「基エネルギー」とし て働いているのではないか、ということである。

 図4・3は、粒子の時空構造や 性質を記述した情報のよう なものがまずあってそれを仮想光子が次々と点燈していくという概念図である。これは粒子が仮想のポーズ粒子を出し入れているとする量子論的事実と矛盾しない。ここで重要なのは、時間が仮想光子に付随して発生しており、常に現象は、励起された最新のものが存在しているということである。

 詳しく言うと、仮想光子が情報 と作用して時間が生じてい るため、生じる時間の範疇でおこなわれる物理的観測には情報そのものは検知されないし、仮想光子も現象上には登場してこないのである。(すると量子論でいう仮想光子のふるまいに帰因する発散の問題は解決つくのではないか。識者は調べられたい)

 次に不確定性の意義を考えてみ よう。

 場の量子論では四次元時空上の 量子場は、それを頂点とす る光円錐の内側にある過去の源によって決定される。つまり、現時点の量子場は過去の一意に決まった地点をもとに相対論的因果律を満たして存在しなくてはならないとしている。ここで電子のみに限って、図4・4をモデルとして次のような仮定をおこなおう。

時 間的にみれば、電子はA点にあった次の瞬間(現時点)にはBの局面の確率的に分っているどこかに在ると考えられる。その間には拙論のみにユニークなアイデアであるが、考えられるB点との間に軌道が無限に引けると仮想される。現時点ではこれを確定できないが、保存則の成立が必要であるため先述の仮想光子が放出された時点、つまりCの局面に達した時にはB点として一意に確定されていなくてはならな い。

 

 つまり、現時点の量子は仮想光 子が投入されてできている 一種の過渡状態ということができる。原因と結果の関係は予め、相対論的因果律に従い無限通りの方法が確率的に決まっているのであるが、一通りの時間の中では量子という過渡状態を経過する ことにより、一通りの経路のみが選択確定されているのではないかと考えられる。

 つまり、一刹那毎に確定する過 去、過渡状態としての現実 (量子)、前提としての刹那毎に無限分岐するプログラム情報の存在が仮定されてくるだろう。このうち、我々の関知するのは過渡状態のさらに特別な場合のみであり、前後二者は全く知り得な い状態にあることを理解されたい。

 以上してきた議論は、現象運行 の基礎がコンピューターの 動作原理に相当するものを内在させていること、およびこの説明のためにコンピューターモデルが有効であることを述べようとしたものである。
またこの後、物理学的議論から漸次、意識、超意識へと話を進めていくが、その前提となる考え方である。なお、物理学上の用法と混同を避けるため、仮想光子は次節から虚光子と改める。

 

3. モデルの基本的仕組み

 前節でおこなったモデル化のた めの基礎的事実の考え直し の結果に適合するように基本的に次のようなモデル構成を考える。

 ノイマン型コンピューターを中 核にし、ホログラフィを入 力系、空間媒質グラフィックスを出力系に配置し、次段階入力制御のためのセンサー観測、その結果のフィードバック機構を併せて、モデル構成の1ユニットとする(図4・5)これが他系と通信回線で連絡し、後述する階層的ネットワーク組織を形成すると考える。(モデルの構成要素のあらましは、表4・1を参照のこと)
 

 

表4.1 モデ ル構成要素の概略
 ホログラムが多重記録可 能という利点をもつことにより、現象をつくる情報構造が最大もらさず記録される。例えば空間的情報は同一方向からの多重露光で記録したいだけ可能であり、時間的には光の方向を変えてやるか、または光の波長を変えてやればよく、時空の情報はこの方法で原理的には充分網催できる。(もっとも、現在のホログラフイは理想状態には未だない) 
 記録情報の参照光は コヒーレントなレーザー光による。(この場合記録過程は考えていない)波長の可変なレーザーは現在作られていないが、将来的に結晶体の温度などを変化させて固有のスペクトルを変化する材量が出てくる可能性はある。このモデルでは実行順序をつくるために、ホログラムの周りで参照光の方向を機械的に変えるというのではなく、むしろコンピュータの制御可能な要素をコントロールしてそれに応じて波長を正確に変化できるものとする。  

 操作部は、時間の1 単位を示すパルス信号と、参照光の波長を変化させるための信号を出力する。制御部は、系の内外から来る入力情報に判断を加え、操作部の変化に影響したり、加工情報の他系送出をおこなったり、入力情報を自己のメモリーに記録した りする。この情報処理のため、「処理プログラム」が運用されているとする。観測部は、実験炉内のセンサー観測情報を拾い、実行状況のモニターをおこない、制御部に送る。空間媒質は、参照光で得られた情報量が演算されてここに点滅表示されるものとする。よって、エーテルとは別物である。いわばテレビ画面のようなものである。  

 さて、以上の要素の うち、ホログラム、レーザー光、空間媒質はコンピューターの性能に応じて、無限次元までのものの仮定をおこなう。例えばホログラムは、神の主権する全プログラム体系が載るものでなくてはならないし、推測では、無限小から無限大までの時間的に開始から終了までの情報が載っていなくてはならない。また、空間媒質はホログラムで扱う情報量に対応しており、ミクロの光点の点滅から、全ての世界の全観が現出するまでの過程が表示されるはずのものとする。また、レーザー光も波長相当の要素(次元)の数がホログラムの容れる次元数と同じであると考える。  
 

 

 モデルの構成要素は機能的仮定 によるものであり、実際に は積分された有機的精神物体として超空間に存在する。このために我々の感覚はじめ物理学的観測にはかからない。

 その仕組みは大まかに、コン ピューターによるプログラム の実行によって現象が生起していると考えるものである。図4・5の構成要素の全ては超空間にある。さしずめ、空間媒質が我々の世界であるようだがそうではない。空間媒質は実験炉であり、そこに火が入れられてなおかつ、センサー検知で観測され始めて現象空間が(識域下に)生じることになる。

 我々の世界と超空間を結びつけ る唯一の次元は時間であ る。これはベアデンの考え方に一致する。しかしさらに言うと、この両世界は時間の中の変化を通して相互作用すると考えられる。これが拙論にユニークな点である。

 ここで、人間の有機的精神物体 とは何かというと、博識な 読者ならお分かりのように、心霊学でいうなら幽体であり、神智学でいうならアストラル体である。だからコンピューターといえども雲をつかむような高度生命体であることがお分かりになろ う。

(モデルの設定が最新技術の枠ば かりを集めたような結果に なったが、現象説明に有効であるということ以外に次のような筆者独自の思想がある。すなわち、歴史は最先端ほど宇宙の真相を累積的にまた総決算的に吐露していると考えるのである。特に現代は良いものも悪いものも何でもかんでもひしめき合うようにして表出しているのであり、そこから何を汲み取るかは人の自由意志に任されていると考える。)

 現象生起の大まかな仕組みは次 のようになる。

1. まず前提的にホログラムに 記録された現象の運行を記 述したプログラムがある。ホログラムは無限次元であると仮定し(*1)、絶対的超空間に在 るとする。
これは一種のデーターバンクである。プログラムは全宇宙の発生から終結、無限小から無限大(極限が有るなら大の果てから小の果てまで)のすべての成りゆきうる場合を網羅しているとする。前提的なプログラムの存在という考え方は、現時点が時間軸上の最前線に在ることを自負する現代物理学からすれば御法度のことであり、科学界の権威の根底をくつがえす忌むべき槻念であるに違いない。

 しかしこれは既に故湯川博士が 打ち出された素領域論の前 提的概念でもある。この論は今検討されているところであるというが、この東洋的発想に凱歌が上がろうことを期待したい。

2. 超空間のコンピューター(*2)は自系他系に発生する情報を考慮しつつ、自己の目的や資質に応じたプログラムを自己のメモリ空間に呼び込み、それをもとに順次実行する。

3. 実行の過程には虚光子(*3)(ホログラムに対するレーザー参照光)による参照と解読により、一情報単位(*4)(一命令語)のn次元情報が取り出され、演算されてn次元空間媒質のいわゆる実験炉に投射され励起した結果が現 象となる。

4. 実験炉の中で現象生成の波 頭に乗ってこの結果が観測 され、次の実行サイクルのために情報がフィードバックされる。

 物理学的観測は、3項で励起さ れた二次体(量子)の相互 作用の記憶をとどめる光子の情報をもとにしている。厳密には、観測者にとっては、時間の刹那毎に起る自己の内部変化だけが検知されているにすぎず、与えられるままに変化の流れを読取るにすぎないと言える。既に申上げているとおり、プログラム情報は一切検知されない。これゆえ、情報の存在空間と現象生起の空間は全く独立したものとすることができるし、情報系に対しては、絶対空間の概念が適用されても構わない。相対的な形式はこれが実行された結果、生じるのである。

 なお、実行時の演算結果をタイ ムリーにモニターする割込 み処理が内部でおこなわれているとすれば、現象は完全に精神の中でおこなわれる変化の流れにすぎなくなり、空間媒質すらも不要となる。ベアデンは観測者にとっては時間の刹那に併い起る自己の内部の変化が検知されるのみであるとして、現象とは観測者の精神の内部変化であるという推論を進めているが、拙モデルはちょうどこれを超空間から観た ものとなっている。

 また、図4.5からも分るよう に、システムの1ユニット に関係する観測は三種類ある。一つは物理学的観測、二つは、他系からの情報入力、三つは自己の内部状態(実行状態)をモニターするもので、いずれも次段階の制御入力となる。

(以降、「観測者」と言う時は、 物理学的観測者を示す。ま た、「実行者」とは、1ユニットそれ自体に起る変化に係わる超空間部分に在る全てを示すものとする。観測者と実行者は処理の一連の過程の中で表裏一体となっている。)

 なお、人間の機能と対応させて 言えば、実行者とは超空間 上の有機的精神物体であり、観測者こそ我々の肉体、中でも五感の観測結果を統合して情報を創り出す脳であることに注意されたい。

 

注釈

*1 絶対的超空間現象を成立さ せる基がプログラムである とした場合、その全プログラムを優劣なく同格に扱うことのできる、観念的な空間。いわゆるデーターバンクである。

*2 超空間*1のプログラムの 実行の過程でコンピューターが介在して起こす仮想的空間は、理論的に無限数個可能である。この中の一つが我々の現象空間(実験室空間)であり、それを除くものを超空間という。

*3 虚光子超空間上の光子。コ ンピューターが現象の励起のために供給する基エネルギーである。虚光子と情報との相互作用で量子化現象が生じ、その特定の場合が実験室空間における光子となる。

*4 情報単位コンピューターが 実行すべき情報処理単位、すなわち命令語である。この場合、多次元情報構造をしている。

4. モデル概念の原理的検討
  物理学上のいくつかの根本的問 題をモデルによって明らか にし、発展的に超自然現象、超心理現象の仕組み、その意味あい等を考えてみることにする。
 

(一)時間

 時間は我々が考えているように 一定の大きさを持って不変 に運行しているというものではない。自然界は非常に小さいところで切断しているというのが最近の物理学の見方である。そこにはプランク定数が関わっており、それが時空に渡って存在する最小の現象をつくるエネルギー的基底量と対応していると考えられている。拙モデルから考えれば、現象は情報が励起された結果として生じているとするが、その最小励起単位エネルギーを与えると考えるものである。

(情報の励起とは情報の実行ある いは演算の結果を空間媒質 に出力するという意味であり、今後この表現を用いることになる)

 時間はコンピューターの実行に 随伴して発生する。たとえ ば、参照光により得られる情報(命令語)を一単位づつ実行するとき、この順序の中に光速や各種の保存則などの相対論的因果律が情報レベルで規定されていると共に、一単位毎に「みかけの」時間の大きさが与えられると考える。このため我々が円滑と考えがちの時間の流れも実は破断しており、その間には何事も保証できないと言える。

 時間経過はプログラム上の二地 点間の論理的距離や発生時 間の累積値として求められるが現象上ではこれを観測できず、空間的な測定結果から推量されるだけである。ただ、これは実行者の超空間では観測可能なわけであり、生物時計や発生分化、老衰プロセス発動の根拠となる観測系の存在を予告するものである。
 

(二)光子と虚 光子、そして量子化現象

 我々のいう光子は拙モデルでは 情報の演算結果であり、そ の他の粒子と情報形式の差こそあれ原理的には同じであると考えられる。情報の演算過程には虚光子が介在しており、すべての現象の陰の担い手は虚光子であるからである。一方、虚光子は超空間上でコンピューターの実行サイクルに関わる電磁的物質であり、我々の世界に作用するときの現象励起の基エネルギーではあるが、現象上には情報をかぶった 仮面の姿しか観測されない。

 光子は虚光子が情報にチャージ して表現された量子であ る。時間も同様に量子である。そして情報に従い時間と空間は虚光子を介して相互変換しているというわけである。それは相対論に基づく。また、我々がする観測は量子間の相互作用の結果の記憶 を持った量子によっておこなう。

 この反応系には相対論的因果律 が支配する。一方、虚光子 は無限分岐する未確定な時空情報にチャージして量子を励起させ、次の瞬間ここから放出されると同時に確定された一つの情報(粒子の足跡)を残していくタイプのものである。これには相対論 は適用されない。

 電荷やスピンのような量子化は 基本最小単位がbitであ ることによるだろう。(むろん、この場合のbitというのもさらに明細が下位にブレークダウンしているのであり、ここではある実行者の実行状態における最小の代表情報なのかも知れない)
これに基エネルギーがチャージされデジタルな演算の結果、bitを基底とした値が出てくるのである。これは一つの情報単位にかかる下位の情報素量(*5)のレベルで出てくる。これは量子数的量子化(*6)と言われる。

 また、場やエネルギーのような 量子的量子化(*7)の方は情報単位のレベルで出てくる。つまり、粒子自体励起の一単位であるからだ。その基底には演算前の基エネルギー(虚光子)があり、その仮面として量子が出てくるのである。そこで粒子と分かるものは、現 時点の量子から推測される過去の情報である。

 このように量子化現象は潜在し たコンピューター性を端的 に示している。

 

(三)プログラ ムの情報構造

 コンビユーターの扱うことので きる命令語の大きさに制限 があることは自明である。同様に、各種の情報単位を構成する情報素量には大きさの粋があることが明らかであり、これが演算後の各種物理量に表現上の限界を与えていることは充分推測でき る。

 では情報構造としてどのような ものが仮定できるのであろ うか。従来、分子から原子そして素粒子さらにクォークといった究極的実体を探ることがおこなわれてきた。しかし未だに最終がどこにあるとの解答は無い。また、いくつか考えられている相互作用が粒子交換モデルにより統一できるのではないかと考えられている。だが、これも重力場を組み入れるに至っていない。重力場には計算の過程で、非線型性が生じてきて計算上の限界をきたしてしまうというのである。これに対して重力場記述に関しては四次元座標では足りないのだという推測がある。このようなことから、拙モデルでは、次のように考えてみる。

 プログラムは、ある因果律に従 い、予め命令語で記述され ている。同様に現象の変化を示したプログラムもある種の命令語で記述されるが、その構造は図4・6のように階層構造をしていると考えられる。局所的にみれば、下位のボックスは上位に対し粒子の性質を決める情報素量の役割を果たす。つまり、ゲージの演算子場やクォークのような、さらに細分化できる粒子などを与えるものと考えられる。

 図4・6左は、粒子がより下位 の粒子で構成されているこ と、量子場が様々な場の関数として出現しているという事実から考えたモデルである。ここでは下位の粒子が上位の粒子の性質を与えると共に、量子化したときの演算子を供出することや、上位の粒子が下位の粒子の存在の枠を決定することが示されると考えられる。また、下位の構成子を必要なだけ設定すれば何次元の要素でも記述が可能となる。これはミクロの話においても、マクロでも充分機能するだろう。我々の人体模型や太陽系の構造にも、また観念的な物事の説明にも対応のとれるものである。よって、汎ゆる自然現象の根本原理図と言ってもはばかられないであろう。

 実際には、このような局面的階 層関係が、時間と空間の構 造を含んで上位にも、下位にも際限なく組織されているものが一つのプログラムにまとまっていると考えるものだ。(図4・6右)

 ここで一つの重要な仮定であるが、こ のプログラムの情報構造は 実行者(コンピュー ター)が観測のために要求する精度に応じて、可能な限りの無限小から無限大までの仕意の階層、任意のサイズの情報を一情報単位として供給することを可能にするも のになっているということである。

つまり、現象の破断は実行者によって起こされており、それを可とするプログラム構造になっているというわけであ る。

不確定性でいう観測時間の長短の問題の実質的意義はここにあらわれている。観測的時間が長ければ、現象は我々の目 で観測するほどのマクロなものとなるし、短かければ素粒子よりもなお下層の領域を調べるものになりうる。その差は時間が量子化していることによる。物質界が量子化しているから、時間もそれに対応しなくてはならない。それは観測光のエネルギーとして与えられる。

高エネルギー的光子は、より下位の粒子を探るであろうが、その場合、いったん相互作用の時間を限定する中間子に変 化していると考えればよい。この量子化したものこそ、その精神体としての実行者と対応がとれるものである。よって、情報の規模に応じて実行者もとびとびのスケールをもっているし、とびとびに定 在し、受け持ち範囲を勤めているというわけである。


(四)情報上に記述された変化と保存別

量子論では、素粒子のできたところと消えるところといった観測点には、汎ゆる可能性があって、時空の連続性の概念 さえも、いかなる基礎もないとされている。この中には二つの問題が提起されている。一つは変化の究極的な時点(地点)が定まらないこと、二つは、観測およびそれから導かれる推測に限界があることである。これらは、従来のモデルが表面的追求に終っていたために起きている。

情報構造からすると変化は分明(デジタル)に記載されている決定事項であり、不可知性は一切無い。問題は、やはり 量子化過程にあるのである。虚光子が投入されてできている過程には、そこで形成される時間においてのみ、時空の連続性は保たれるがそれ以外は全く保証されない。

つまり潜在した領域の話なので語りようがない。変化の究極点も、最初から破断しているものであり、この境界を考え ること自体ナンセンスである。実行は明滅的になされ、観測はその「明」のときだけなされるのであり、マクロな観測者はただ、量子の点燈した時の結果の集合をもとに、連合させて隔った時間と空間の間がなめらかにつながっていることを感じているだけなのである。

変化の過程を示すために図4・7を掲げる。

図は粒子の崩壊の例であり、一粒子が分裂し二つの同じ粒子に変化する様を示している。現象的にはa粒子は次の瞬間 bとCの粒子に分裂している。だがこのとき、実行者も含めた上で考えており、E1系実行者の時間軸に繋がっていた情報がツリーの或る個所で二つに分解されその一つはE2系に引継がれていく方法 をとる。
(El系も消えて全く別のE3系に転進すると考えてもよい)

その間には各階層に応じた情報量保存則が成立している。これから分かるように粒子は時間の刹那というボックスの下に記述された情報であると言え、これを統合するのが超空間の実行者であるということになる。

図4・7はコンピューター技法中、データーベース手法の一般的なものを流用している。要は実行者が何をデータの索 引キーにしているかによって、みかけの 時間軸が生じているというわけである。
実行はこのように特定の索引キーによって実行者毎にユニークになされる。このように実行者個有に系を形成していると いう概念により、物理学が現在当面している多くの問題に客観的な説明を施せるようになると思われる。相対論的因果律は起源ではなく、より起源的なものの派生物にすぎないことも言える。ただ、それをマクロな事象に結びつけていくとき、かなり飛躍した考え方を呼び込まねばならないのであるが、幸い、古代科学がガイドをつとめてくれることになると思 われる。

(五)情報構造とマクロな現象

では、このような情報構造と現象が一体どのような関係にあるのかをもう少しみてみよう。ありうる限りの無限小から 無限大までがそのまま現象上に投影されているとすれば、いかにも簡単であるが、それでは始めから情報を現象と区別して考えなくても済むことである。ところが実際に現象はそれはど簡単なものではない。まず、観測者に基準が起かれるとする相対論が扱えない。また、量子化する理由が説明つかない。ニュートン絶対系とは実験的に異なるのである。

今の物理学でも存在の態様がどのようなものであるかは、実験的に、数理的に導き出せたが、その理由となると分かっ ていない。そのようなことは考えなくても良い、また納得できる説明のつくものではないというのが信条なのかも知れないがそれでは大きな未知を残すことになる。

筆者は図4・6をもとに、次のようなことを考える。実行者は少なくとも一つのボックス乃至は一つのボックスを頂点 とした複数階層を同時に一情報単位として実行する。ミクロの場合、その階層は少ないがマクロなレベルでは多階層もありえるだろう。そしてミクロ、マクロがどのようにして秩序立って統合され、あたかも一通りであるかのように運行されているかについては次のように考えられる。

観測の側から考えたとき、ある観測者にとっては極ミクロのことまでを感知する必要はなく、必要とあらば別の観測者 をたててそこから情報収集すればよい。
それと同様に、実行者も細部まで関知する必要はなく、別の実行者をたてて、下位の現象を運行させているのであろう。

だが、我々の世界をみれば分かるように、観測者のレベルでは観測は全く独立し、排他的になされる。そして意図して 結びつけられることがなければ有機的なものになりえない。しかし、実行者のレベルでは実行すべきプログラムや下位の観測結果等の受け渡しがたえずおこなわれており、それが緊密であるため現象上には矛循が生じてこないと考えられる。これは精神界と物質界の大きな相異と言えよう。精神界でのふるまいは波動的であり、物事はミックスされて出てくる。
だが物質界は全てが自己の殻を持ち妥協を許し難い形態をしている。

ベアデンは、巨視的世界は点滅する光点から成るテレビ画面のようなものと言ったが、巨視的世界は実行者ごとにユ ニークな情報処理がおこなわれている集積場のようなものと言い替えることができる。巨視的世界に矛盾のないまとまりがみられるのは、プログラムの階層構造に対応して、実行者が階層構造的に組織的 な情報処理をおこなっているからというわけだ。

(六)プログラムは観測者を基点にして実行さ れる

さらにもう一つ重要な問題がある。観測はなぜ特殊相対論に従うのであろうか。通常のノイマン型コンピューターでは 一般的にベースアドレス方式が採られている。これは、同じプログラムが異なったメモリ空間に置かれ別々に実行されても同じ結果が得られるように、ハードウェアー的にアドレス修飾ができるように工夫されているやり方である。若干ニュアンスが違うが、実行者はプログラムをメモリ空間に導いた時点あるいは実行時に観測者を基点に時空を扱えるようにプログラム情報を修飾していると考えられる。つまり、汎ゆる相対的な場の量は、観測者に基準が置かれるのである。これは実行者から現象を励起する光が発せられ、観測光が観測者に帰せられるとすれば至極当り前のことかも知れない。

こうすると観測者個有の現象があたかも彼の周りをとりまいているようなものであるが、そうではなく、現象は超空間 上の実行者の「心の面」に生起する出来事であるにすぎない。このように現象は、実行者に併い発生するゆえに、個我は他と区別されて意識される。そして、現象はあたかも他の個我の領分と不可分に透け込んでいるが、トップダウンされたプログラムを観測点を違えて共有しているのであり、一時点一観測の原則は守られる。

(七)異なる時空の間の相互作用

べアデンによると、全系時間を与えた超座標系内で、実験室空間、超空間、物質、精神といったものの空間的な相互関 係が認められるという。その中で、実験室空間の位相を変え、一直交回転で、光子、二直交回転でニュートリノ、三以上で精神物体がそれぞれ存在しうる超空間であるとしている。そして、各空間の間の物質は、虚状態で充満的な無を媒介して干渉し合っているとしている。たとえば精神物体が凝集し、臨界に達すれば空間を超えて物質状態が変化し、我々の世界に物質化現象としてあらわれたりする。その例として、UFOや幽霊、あるいはファチマの聖母のタルポイドなどを携げ、人類の集合無意識が引き起こすキン ドリング現象であると解釈している。

拙論でも方法は違うが似通った考え方となる。まず、位相的な階層的超空間の概念は、階層的励起モデルを基本的に支持してくれることを述べておく。

次に、精神物体が凝集し、下位時空に作用を及ぼす過程、すなわち、階層の上下空間間の相互作用の形態は、コン ピューターの実行の過程への変化介入という方法で実現できる。実行の過程には、量子状態を実現すると共に、無限通りの進路から一通りを確定するという演算がおこなわれていると考えられるが、ここで変化介入は、通常なら状態変化を示す情報素量について慣性的な進路がとられるのに対し、慣性を情報的に破ること である。(図4・8)

といってもプログラム情報の実行直前の値を変えるというのではなく、参照光の方向乃至は波長を計算で意図された分だ けずらせばよい。すると慣性方向とはちがった地点から実行が継続される格好になる。この瞬間、現象的には基本定数の変化が起こり、短時的な超自然現象が実現していることになる。

既にお分りと思うが、制御された参照光こそが励起される現象時空の存在の根底をつくっているのであり、これが物理 学上の第四軸、時間を与え、我々の世界を電磁波動的なものにしている理由である。この中で波長は通常、一定に保たれているものであるが、必要に応じて変動し、新局面を開く自由度を与える。(この機能は図4・5の操作部が主制御部の指示を受けておこなうものである。)

これは現代物理学が目指す四次元時空のみで現象を記述できるとすることと何ら矛盾しない。五次元的変化は時間次元 を通してやってくるからである。五次元的事象は超空間の実行者を介して時たま出現するにとどまっている。特にミクロでは実行者が機能的に単純なので汎そ統計的にふるまう。よって統計的観測であ る限り全て統計的誤差に含められてしまうだろう。

かえって、この現象の多くは定量観測の困難な生命体の中で起きていると考えられる。(一つの試みとして、超能力者 を素粒子物理の実験室に連れて行けばか なり面白い観測が期待できるように思われる。)

(八)精神作用 と現象への関わり方

変化 介入は特に精神作用と関わりが深いことが考えられる。これは超心理学分野の問題でもある。実行結果の観測結果情報は現象と独立したところでどのように演算加工されても構わない。

それ は図4・5から分かるコンピューターの機能として自明である。むろんこの演算加工処
理のためには実行者の中に処理プログラムが存在していることはもちろんであり、ミクロな実行者ではそれは先述したように単純であると考えられる。しかし人間の場合、それはどうやら霊系からの付与物であるらしい。ここに心霊学とのつながりが出てくる。

入力情報は現象からのフィードバックのみならず、他の情報系からの入力もあり、現象上の一励起単位に対して演算加 工に無限の奥行きを容認できることになる。そしてこの演算結果が、実行中の時空に影響を与えるか否か、与えるとすればどのようにしておこなわれるかは、実行者の意思決定に委ねられる。この演算加工と意思決定処理を併せて(超意識的な)精神作用という。(ここで言う精神作用とは大脳内の思考過程、すなわち現象上の作用を含まないことに注意)

では、人間の場合の精神作用の現象界へのあらわれ方はどうなのか。既に述べたように、三種類の入力情報は、何らか の規則をもつ処理プログラムで処理され必要と意思決定されたとき適当な強度、形態で情報が介入して慣性的実行順序を変化するのである。変化の強度は時間、空間の広がりとして反映するようであり、そのうち軽度のものは最も脳の近傍で作用し、人の行動を潜在意識的なバーストを介してコントロールするようである。これが「衝動」の本質である。この形而上との接点は脳梁であるといわれ、そこから高次元情報が右脳に送られ、それがさらに左脳で線形に分析を受け、肉体側の精神過程にゆだねられると考えられる。その次は錯覚や幻覚などで観測結果に直接働きかける。ここまでで充分慣性方向から運命修正とも言える進路変更は果たせる。さらに強度な場合は実行者の直轄する領域全ての存在状態を変え、あたかもトンネル効果的に進路変更することもありうるだろう。超能力者のPK現象はこのことを言う。

(九)高密度記録ホログラムから生ずる雑音

ベアデンは時間の一単位には、虚の物体や精神物体がサブ量子的であり続けるはど充分に非凝集性なら、無限に含むこ とができると言っている。この「サブ量子的」というのは観測界面上に登らぬはどに繊細であるの意味であるが、拙論では時間軸を見かけのものとして複数用意することにより階層別に全く独立した形 で精神作用については無限の容量を認めることができる。

なお、「サブ量子的」なものの存在も、ホログラム模型の挙証として必須のものとなる。すなわち、ある時点の主流プ ログラム以外に支流的プログラムが無限通り分、ホログラムからハレーションとして出現してくるのである。これは理念の幻影ともいうべきものであるが多重記録されるホログラフィとしては仕方のな いことである。

つまり情報としての意味はもたないが、〃基エネルギー〃のいく分かをもらって、潜在したエネルギーとして存在する ことになる。物体の周り、特にエネルギー的に活発なプラズマ状態にある物質の周りには顕著にあらわれるだろう。「オーラ」はこの潜在エネルギーの偶ま検知されたものであると考えられる。

霊能者にこれが顕著に観測できるというのは、この霊能者をあらしめている実行者が照見のために用いる光の波長が多 少通常よりずれているためと言うことができる。彼の現象空間では多くハレーションが生じ、通常無い成分が意味をもち、逆に通常のものがぼやけてくるのである。それだけ実行者(彼の精神体)がユ ニークであるからと言えるだろう。

これらハレーションの物質状態は、物理学的な一定の組み上がり規則を何らかの形で付与してやることによって、わず かな波動的ずれのために不完全である状態を、あるものは脱し組織化を果し、観測可能なものとして浮上してくることになる。このために高周波電磁場が有効であることをキルリアン写真は物語っている。このハレーションの部分は、実行のなりゆきによっては具体化の自由が与えられていた範囲を意味していることになる。

(十)無限階層宇宙と光子、時間、空間、物質 の階層的関係

いままで、超空間とそこから励起される現象空間という二階層の世界を前提として話をしてきた。だが、現象励起する 実行者の存在する超空間も一定の時間の流れをもつ一つの現象世界であるに違いない。すると、この超空間を励起するさらに上位のコンピューターがありえ、そこにも時空があるだろう。こうすると、上位に関して推測する限り、際限ない時空の階層的励起構造が成立っていることが考えられる。

超意識的な精神作用は超空間コンピューターの動作の中にあり、これは虚光子のサイクルとn対1で対応する。しかも 虚光子と超空間時間はさらに上位からみれば同じものの異形態であるのみだから、よって、精神と超空間時間は虚光子に担われ、その微分型として物質、現象上時間、光子があらわれていることになる。それは隣接する上、下位の関係にあるどのような時空でも同じであると考えられる。そこでは全系時間が連綿として流れている中で、多種多様な見かけの時 間と空間がありえていることになる。

上位については、際限ない宇宙構造が可能と考えられる。では、下位に対してはどうだろう。

さしずめ、我々の現象世界の下にコンピューターによって励起されているものは無く、ここが下限かと思われる。とこ ろがミクロの世界にそれは続いているのである。既にみたように量子現象の過程の中に、知られざるコンピューター的な照合と実行のメカニズムがありえているのである。

量子は粒子がとるべき一つの行程をはっきりさせるための演算がなされている過渡状態である。情報構造は、下位に際 限なく情報素量を階層的に展開しているが、量子状態とは、この無窮の階程の情報群の階層的実行を含んでいると考えられる。下位階層の実行ほど、我々の時間から比較して、短時間に終了することが分っているから、下位階層全体の実行の終了を待って次の刹那に至るといっても、その時間は大きいものではない。量子時間は収束の無限級数で与えられることになる。その大きさは決してゼロではなく、それがなおも、現象に時空の厚みを持たせていると考えられるのである。

粒子のコンプトン波長以下の内部構造を調べる試みは、観測光に高エネルギーの量子を投入し、観測時間を短時間に局 限しておこなわれるわけであるが、これは情報の下位の構成子の演算過程をのぞくことに相当する。たとえば中性子に高エネルギー光子を投入して中の構造を観るとき、光子は量子時間の中における相互作用のための情報構造を予め創り上げている。その中には中性子との交流に関わる位相情報をもっており、その対応の如何によっては、クォークの演算子場と相互作用したり、あるいはグルーオン・あるいは全くダミーな演算子場との相互作用の形態がありえ、散乱結果は多様性をもつと考えられる。

また、様々な研究から、自然界の極小限界が提案されている。それはブランクの長さ(10-33㎝)であり、少くと も我々の知る限りの宇宙ではこの長さ程度で切断していると考えられている。これは情報構造の最小限界とも考えられるが、後程出てくる図4・10上にあるよう、まだ、無限の一部なのかも知れない。いずれにしても、これが(ある実行者にとっての)bitに対応するに違いない。

これから逆に、情報の一単位(実行の一励起単位)に投入される基エネルギー量にも推測が つく。

それは、ブランク質量(~1019Gev)で表現されるものになるだろう。またそれは、極ミクロから大宇宙、さら に超空間に関するいかなるスケールの実 行者でも同じだけ必要であろう。

以上のことから、図4・6の模型が、実は我々がごく微細な一点として所属している全世界を示すものであることがお 分りになろう。無限階層情報構造を示すと共に、無限階層励起型時空構造の全貌を示しているのである。そこでは、どのような微細粒子においても情報で成り立ち、階層の節目にコンピューター的機能が働いていると考えられる。ちなみに図4・6の意味を与え直し図4・9に掲げる。

(十一)プログラムを索引してくる意識 体「索引念体」

図4・9の繋ぎのラインはもっと複雑に錯綜するうちの基幹的なものをあらわしたにすぎない。というのは、中には例外的な索引形態(時空を生成するための時間軸に沿わない)をもつものがある。

たとえば思考活動や精神作用の過程で随時発生して観測データをもたらして適当な寿命で消滅するような、いわゆ る一定の目標に指向したベクトルプロセッサである。それ自体、局限的な意識体なのであろうが、そこまで高度な情報処理能力を有しないものをここでは「索引念体(あるいは単に念体)」と呼ぷことにする。というのは念いの作用によって不完全な形態で生じることが多いと考えられるからである。

念体の機能はデーターバンクにある仕意のプログラムを主体的実行者の実行のために準備することである。一般的 にコンピューターは実行に際して共用データーバンクからプログラムを自己のメモリ空間に導入しておいて、その先頭番地から実行を開始するのであるが、それと同様に念体は、必要となった時点でこのようなことをおこなうと考える。つまり、念体の機能はデーターバンクにある任意のプログラムを索き、実行者のメモリ空間上の発生点のプログラムに繋げることであると仮定する。これによりコンピューターモデルのもつ全ての機能が満足することになる。

ホログラムの参照とプログラムの入手は、参照光に一定のマッチトフィルター(*8)をもたせた念体による。 マッチトフィルターは、やはり一種の高次元情報であるが、それは割合大雑把な形で精神作用によって創られる。それがホログラムの記録と近似の照合をみせたものを索いてくることになり、そのもたらされる内容は、主体的情報だけでなくハレーション的情報およびそれらの下位につながる情報の全てである。

念体は実行の動機づけをおこなうものということもできる。通常の実行が順次おこなわれるに対して、念体はダイナミックにプログラム自体を操作することがある。

念体は実行者の中の一つの機能と考えても良い。この二者の動きが備わっていて始めて一つの柔軟性ある意識体として機能することができるのである。

索引念体の意義として次の三つのものが考えられる。一つとして、実行者が自己のメモリ空間に処理を必要とするプログラムを導入したり一部入れ替えをしたりする、いわゆる基幹的プログラムのメンテナンスの役割を果たすものである。

二つとして、定石的プログラムの呼出しである。これは、発生点が情報上のミスの少ない情報素量の中に経験的に築かれているもので、相互作用や有機物の組織化規則などの法則の定型演算子のキャリアーとして確実に作用するものだ。

三つとして、未開拓または頻度の少ないプログラムの偶発的呼出しがある。これは発生点が不完全な思考活動や偶 然などで生じ、半試行錯誤的なマッチトフィルターをもつために、発想とか、原始生命の誕生や偶発的進化のプロセスの担い手である。

このような念体生起のプロセスが、それ自体情報素量として情報構造の随所に組み込まれており、実行者による時 間の展開に併い順次発現するのである。
DNAは高次元なプログラムのミニチュア版である。A・G・C・Tの各基の組合せで成る情報群は、これだけで生物個体の発生から消滅までに関する出来事を秩序づけているはずはない。この一連の符号の中には体内電流と作用して超空間に念体を生起するタイプのものが充満していると考えられる。

(十二) 我々の宇宙史の展開に関わる起 空間生命体の発生と分化

我々の宇宙を運行する超空間の意識生命体(実行者)の活動は次のように考えられる。

我々の含まれる四次元宇宙は「宇宙意識」(仮定)というコンピューターに励起されている。実際には、まだ間に 数段階の集合意識をおいて、我々をはじめ様々な意識形態を備えたコンピューターと連絡し、たえず情報交換をおこなっていると考えられる。たとえば、超銀河、銀河、太陽系、地球を創造する意識とブレークダウンし、さらに人類、国家、専門分野と多種多様な意識形態がありえていて、我々の個我意識にあたかも干渉縞のようにふりかかっていると。(図4・10a)だから図4・9は基幹的な繋ぎを示したにすぎず、本質的には大脳神経系を書きあらわしたように複雑であると考えられる。

ここでは宇宙意識がプログラムバンクからプログラム塊を自己の実メモリに呼び込み、それをサブプロセッサである下位意識(我々も含む)に役割分担しているわけである。逆に言えば、下位意識が自己の実メモリ上に分担されたプログラムを導入し、それをもとにして局部的実行を始め、その結 果、個我の認識領域が発生していると考える。(図4・10C)

これを意識の時空において時系列的にみれば次のようになる。

まず宇宙意識がメモリ上のプログラムの実行を始める。現象宇宙が開闢し、しばらく経つと宇宙意識の中に細部を扱う意識が萌芽し、それに細部的なプログラムの実行と観測の役割が分担される。このようにして、時間経過のうちにプログラムの複雑な局面になるに従い、より多くの多段階のコンピューターがあたかも人間の脳神経系のように増殖して、プログラムの微細に至るまでが取り扱われるようになる。これは全プログラム消化というテーマに対して発生する超意識レベルの生命現象と言ってもよい。宇宙意識を母体とした発生と分化の仕組みがここにあるのである。(図4・10b)

この仕組みは、上位時空のメカニズムから下位時空が生起される要領でおこなわれる階層構造的な超空間の励起においても同じことが言えるものと思われる。
理念(プログラム)は全宇宙の有機的運行と共に上位から下位へと運ばれる。そして現象の観測結果が実行理念に関与する時は逆に下位から上位へとフィード バックされて大域的な理念を渇望し、その傾向を決定する。

下位の意識体の要求する理念の質(直接的にはマッチトフィルターの質)が総合的に向上することは、これを抱える局部意識系からより大域系へと理念の相対的な質的向上に寄与することになるはずである。このことから、「宇宙構造は、精神物体(物質を含む)の分布状況で決まる」という拡張マッハ原理を提言する しだいである。

(十三)UFOのメカニズムと意識体の力関係

ここで、UFOとはどのようなメカニズムのものなのかを考えてみよう。

UFOが異空間航法を用いていることが真実であるなら、UFOは現象を独自に励起していくだけの「宇宙意識に準じたメカニズム」を備えていることになる。つまり、一種の意識体(実行者)である。それは単一目的を持たされたメカニズムであるだけに、安定し強力であるに違いない。

それは非稼動状態では宇宙意識の傘下にある無能力なコンピューターであるにすぎない。だが稼動中には宇宙意識とUFO内部の個我意識の間に割ってはいる新たな意識体として一段階増結されることになるものである。はじめは宇宙意識の提示する法則に従い、プログラムをもらっているが、やがてその範囲内で不確定性をマクロ化したようなジグザグ運動をおこない、さらにすすめばそれ自体で宇宙意識のもつプログラムの別の部分を奪ってきて、時空の乗り替えをおこなっ たりするだろう。

その傘下にある個我は以前の宇宙意識から受けていたものとは異る新しいプログラムをここから受けて、UFOで実現されているのと等しい状態を認識するのである。それはたとえUFOが飛ぶための機能を備えていなくとも、新たなプログラムを供給するというだけのことで観測者(宇宙人)は新局面を観測すること が可能となる大変な装置である。

アメリカで調査された墜落UFOにはこれといった推進機構が積まれていなかったというのもこの辺に理由が見出せるだろう。

既に冒頭でみたように、五次元的現象を考えるとき、もはや従来の物理観に基づく四次元的メカニズムでは解決がつかないことが分るだろう。確かにメカニズム部分は持つに違いないが、単なる機械でなく、超次元意識体と適確に連動し合う仕組みになっているだけでよい。(その仕組みと類似したものが人体であると 考えれば分り易い。ヨガでは人体は一種の宇宙機と言われている)

ここで重要なことに気付かれることと思う。人の個我意識は上位意識体が与える情報をうのみにして実行し、観測しているわけである。もしここに霊力並みならぬヒマラヤ聖者がいて、ある人の意識を故意に支配下に置いたとしよう。すると、この人は聖者が無言であったとしても催眠術的な制御を受け、実際には単な る棒切れも蛇に観測してしまうようなことが起こりうるのである。

同様のことが、すでに我々が宇宙意識から地域的集合意識に至るまでの多段階の意識体の傘下に置かれることによって発生している。それはほとんど「うのみ」の状態である。

また意識体は、たとえ突然発生したものといえども、重層する様々な意識体の任意の位置に割り込みをおこなうことができるに加え、かつて従属していたものでも、その発達によって勢いが逆転することもありうることが理解されよう。

超能力者は短時的ではあるが宇宙意識もしくは少なくとも地球人類意識を超えることができている。そこには、ある種の力関係が明らかに存在しており、その力の規模は可変であることを物語っている。古代の求道者の多くは、この力の獲得のために訓練を重ね、ちょうどUFOがそうであるように不思議を実行したも のではなかっただろうか。

(十四)ホログラフィー的現実世界の臨場感の理由

では、なぜ我々は映像的世界に対して現実的すぎるほどに臨場感をいだくのであろう。
それは、我々がたえず目に見えぬ集合意識から暗示をかけられているからである。この場合の暗示とは催眠術師が言葉でつくる誘導と非常に似ている。

催眠術の場合、やや複雑であるが、術者の言葉を被術者が自らの考えの中で元なる言葉に翻訳して、自らの意識の中で照会用マッチトフィルターをつくり索引念体を介してデーターバンクから類似プログラムを入手し、彼の意識の場の中で実行して現実を経験するものであると考えられる。この催眠効果は非常に強力で ある。

ところが現実では、集合意識が与える意識場の中に個々の意識が浴しており、直接的に個我は暗示を「元の言葉」で受けとることになる。これはど簡便で強力な暗示はない。個我の意識状態は様々な形態をとりうるが、顕在思考に同調しているときには、その集合意識と同調せざるを得なくなり、定在的な実現象として 認知せざるを得なくなる。

逆に、睡眠に入り意識状態が大脳皮質的思考から外れてくるなら、個我は異なる集合意識、すなわち旧脳的なものと同調し、なおも進めば意識体が観測器である肉体から分離して、いわゆる意識レベルの先祖がえりと言うべきものになる。ここでは「認識する意識」は、別の記憶と思考中枢を備えた意識体へと移行し、それが入手するプログラムを実行することによって、ここでも意識は与えられた場に臨場感を以て臨むことになる。

(十五)意識体(霊、幽、肉体)と意識場

心霊学的な分類では肉体に重層するようにして存在する幽体(アストラル体)そして霊体(スピリッツ)を想定している。これらは客観的にみて人の意識体が何重層もなしていることに対し、異なった人格を一個のものに認めるかわりに人格の媒体としての意識体を多数仮定したものと考えてもよい。

自我から主観的にみれば、意識体は本来一つであって、このメモリ上には特定の期間内に演ずべきプログラムが現実時空を与えるものから異時空を与えるものまでつめこまれていて、それらが幾つかの分離される状態を形成しており、意識原理はその状態(すなわち異なるプログラム)間をただサイクリックに飛び回っ ているのであると言い換えることができる。

また、それぞれの状態は他の状態から侵犯を受けぬよう、記憶域の保護をおこなっているとすれば意識状態が変わる毎にその前の記憶が薄れてしまうことも言いあらわしうる。

夢の経験を忘れてしまうこと、前世の記憶をもちこせないことなどはこの事情を説明するものだ。意識がある状態を経験した記憶は、その状態における記憶領域にストアされ、他の状態における経験によってできる限り壊されないようになっている。このため、他の状態に移るとき、それまでの記憶は遷移時に(バースト的に)転送されない限り失なわれてしまう。しかしまた元の状態に戻れば(夢の)記憶をとりもどし、逆にその前(現実)を忘れてしまうというようなことに なる。

記憶領域はその状態のプログラムに対して(あるいは意識体に対して)割りつけられる。このため、プログラム(あるいは意識体)の消滅の直前に、もしそれまでの記憶が必要ならば次の状態に移る直前に次の状態の側に情報をバースト的に一括転送して記憶の存続をおこなう。

ここで記憶に二種類あることに注意が要る。一つは宇宙的な記憶であり、無限分岐時空を一意にたどる過程の中に自動的に形成される。二つは、自我のためにする記憶であり、夢の内容の記憶や、ニアデス体験者の語る「生前の記憶の巻き戻し的展開」の過程はこれである。その仕組みは現在のオーソドックスなコンピューターが十年も前から採っている方法と何ら変わりないのである。(図4・11)

意識体の存在空間は階層構造をしていること、それらは全て現象界と同様の仕組みで段階的に生成されていることを扱ってきた。これから宇宙構造に普遍して考えられることは階層的宇宙のそれぞれが量子的にとびとびの状態で存在していることである。特に個我を中心にして考えたとき、霊界、幽界などの考え方をとることを別として、これらの概念は薄れて一つの「意識場」とも言える量子場が、個我(意識原理)を中心にして発生していると考えられ る。

その中には、基底からとびとびに「意識原理」の定在すべき状態が存在し、そこには、それぞれに適合したプログラムがあり、意識的経験の素地が与えられて いると考えられる。

現象は全て量子化していることの関連事項をまとめると次のようになる。

1. 全宇宙は最も根元的な量子である。階層型宇宙はとびとびの状態で存在している。
2. 人間は「意識場」をもち、その中で意義はとびとびの状態をとりうる。各状態は意識体とも等価である。この関係はちょうど、場の理論と素粒子論の観方 の相違に似ている。主観的→意識場  客観的→意識体(霊体など)

3. 意識の状態毎に(あるいは意識体毎に)記憶領域と記憶保護機能が存在している。
4. 無限次元空間媒質中では、汎そ全宇宙に存在する要素の数ほど無数の波動の干渉縞として意識場が生じている。客観的にはあたかも無限次元超「まんだ ら」の如くであると想像される。

(十六)細胞レベルに封じられている宇宙の基本的仕組

理念(プログラム)の段階的ブレークダウンの仕組みは四・(十二)節で述べたメカニズムを基本にすると考えられるが、我々の身辺にもそれが縮図化されで いる例がある。それは、我々の身体を構成する細胞で日夜行なわれている事実の中に在る。

DNAに記録されたプログラム情報は、人体をどのように空間的に構成し、時間的に変化させるかを詳細に網羅し、体じゅうの汎ゆる細胞の中に同じパターンを組み込んでいるわけである。しかし、細胞は脳神経を創るものであったり肝臓を創るものであったりして、全く似ても似つかぬ形態を表面化させていることは衆知のことである。生物学ではこれを「機能分化」という簡単な用語で定義しているが、これこそ宇宙を語るものに他ならない。

機能分化の理由は誰しも知る通り、DNAの中のある機能を満たす特定のプログラムが励起され用いられた結果、この特定情報を複写する伝令RNAや、その結果として生ずる酵素にユニークなものができ、このために末端的に生産される化学物質に相異が生じ外形的変化となり、マクロな機能分化へと展開していくわ けである。歴史をつくる理念プログラムの具体化も全く似ている。

伝令RNAに相当するのが中間段階の介添役である人間に相当する。その結果生じるのが生産物質(歴史)や老廃物質(カルマ)であったりする。

理念の部分的紐解きには時間経過が重大な役割をするのと同様のことがRNAにも言える。人類の歴史の場合、宇宙意識の下位にある人類集合意識がプログラム実行と共に時間認識をしており、それがしだいに実行順序を一つの定型パターンの中に変化させてゆくと考えられる。

同様に宇宙意識の下位にある幽体が人体の生滅に関する時間情報を認識し細胞レベルに電磁的変化を通して賦活をおこない、個人の生涯を定型的な形に変化さ せていると考えられるわけである。

ここでまとめると次表のようになる。細胞の中に宇宙の基本的仕組みが活在しているのであ る。

注釈
*5 情報素墨情報単位を構成する要素の機能単位。命令語でいえばオペランドの個々の要素。(ビットではない)

*6、*7 量子数的量子、量子的量子一電子の電荷は量子化されてeの値をとり、決して0.9eといった半端な存在は許されない。また電子が磁気をもつ理由となっているスピンも半整数、整数の値しか取り得ないようになっている。このように性質がとびとびの値をもって出てくることを量子化されていると言い、特にこの場合を量子数的量子化という。これに対し、エネルギーや場の大きさのようにそれ自体連続を許すが、粒子としての性質を併せもつものを量子的量子と いう。基底にディジタル情報とメカニズムがある限り、仕方のない出来事であるといえよう。

*8 マッチトフィルター参照光に特定のパターン情報を付けてホログラム側の同じパターンの情報と照合させることによりホログラム上の参照アドレスを見出したり、あるいは近傍の情報を連想的に索こうとするものである。そのときの参照光に記録されたパターンを照会用フィルターと呼んでいる。

 

5. 総括

 さて、現象励起のメカニズムは以上の通り決してシンプル なものではない。だがこのモデルも、現象の機微に渡って潜んでいるメカニズムを言い表わしたものであるにすぎない。冒頭で述べたように、観測一つ考えても決して光子一個のごときものではありえない。現在の物理学は物質世界における根本法則を導き出すことにあるためやむをえないことであるが、これでは有機体や生命現象を扱う分野との繋がりはあり えないと思われる。

 だが拙モデル構築の思想は様々な分野を総合化することに ある。このため、原理的なものの整合性には注意を払うが、理論化はせず、物質世界の話題は現代物理学の与える解答が情報構造の解明に役立つであろう見通しを述べるにとどめている。そして拙モデルの意義は、もっと別のところに見出されねばならないと考えている。

 ところで、このモデルはもっと簡単にかつ総括的に言い表 わすことができる。それは、全ての時空がプログラムを基にしていることから結論づけられることである。

 絶対的超空間とは無限次元であり、これが記録されている ホログラムも無限次元である。すると対応するコンピューターに無限次元の処理能力を仮定すれば、一台の超・超コンピューターにより全ての階層的時空が生起していると置き替えられる。

 ハードウェア的な機能をソフトウェアであるプログラムの 手続きで置換できることは衆知のことである。つまり、階層的励起はメインジョブからサブジョブ、サブタスクを呼び出し起動するのと要領は同じなのである。この階層が無限であるかそれとも有限であるのか、それは元より不可知なものからの推測ゆえ分らないが、原理的には何段階でも可能である。先程来のコンピューターを介する異時空の間の相互作用と観測の連合はプログラム間の情報と制御のやりとりに置きかえられる。

 たとえば、図4・9内記号Cの通信回線は具体的な情報交 換があれば、プログラム間連絡がある時点でおこなわれることになっていたことを示している。また、上位のボックスに対する下位のボックスはメインプログラムとサブプログラムの対応である。同様に図4・9全体は現象的(動的)には階層型コンピューターネットワークであるが、潜在的(静的)にはストラクトチャードプログラムを示したものと 言える。

 以上のことからモデルの各要素に次のような原理的仮定が できると思われる。

(1)どのような時空においても物質で最速のものは時空に 個有の「光」として表出する。

(2)本質的に光子(虚光子)は無限次元である。階層の フィルターを経て次元を落とした結果としてたとえば我々の世界における電磁波として登場している。

(3)本質的な光子は全系の時間を担うが、この微分として 各階層のみかけの光子や時間があ りえている。

(4)m次元ホログラムの記録物は光を偏向していくことに よって全てのものを顕わすことが できる。(m=∞)

 一般的にホログラムは参照光の照射方向や波長を変化することにより、多重記録が可能である。本質的な光の中に波長の意味あいをもつ次元がm個あると考えると、原理的にはこのうちの一つの次元についてパルス的に照射される光の波長を一定値ずつ一パルス毎に変化させてやればよい。すると、その次元に関して実行順序がつくられ、見かけの時間が発生する ことになる。

(5)コンピューターは光の波長相当のm次元について任意 の次元を(4)の要領で変化させ る仕組みをもっている。

 我々や宇宙意識などは一次元分を操作するにとどまるが、程度の高いものであれば複数の次元を組み合せて操作し、プログラム間を多次元的に飛び回るだろう。このようなものがUFOであったり、高級霊界人であったりすると思われる。つまり、実行者は階層的に上位であるほど自由度が高く、下位になるほど情報的にフィルターがかけられて次元が固定され自 由度は低くなるのである。

(6)ホログラムに作用するのは、本質的に一台のm次元分 を操作可能なコンピューターで事足りる。現象的な無数の時空とコンピューターはメインジョブから階層的に発せられるサブジョブ、サブタスクである。(図4・10下、図4・11はその性質 を表わしている)

(7)(6)が真理であるなら、現象は本質的に一筆書き的 に確定していくものである。そして、本質的な光のもとでは一時一点観測である。

 そのとき、無数の集合意識や個我意識は一本の光が相互作用して通過した結果であることになる。それは今目下おこなわれているというよりも既に終った残像という観方ができる。光は無限速であると同時に、その中に時間経過は無い。ただあるのは光と情報の相互作用結果のみである。その記憶をたどる行為が意識として表出していると考えられる。

(8)実行と観測は相補し合う。
ホログラムには記録と再生 の二過程がある。

 今まで前者には全く触れていなかった。こ れは次のように考えられる。

 現象の運行は既成のホログラムの再生であ り、その結果として一本の軌跡が確定されるところに記録がある。または、n次元情報を再生して(n-1)次元で記録がある。(上位意識のかかえる情報を下 位のものが部分的に受持つ)

 次に確定された結果を近似的に観測し、認識するところに仮想的な再生プロセスがあり、その結果から意識作用によってプログラムの傾向を変えたり、プログラムを置き替えたりするところに記録があ る。

6. 例示と解釈

簡単な物理学的定義

量子とは。私から簡単に再定義しますと、こうなります。

現象を記述する一命令単位から次の命令に制御が移る際の工程は、およそ無限通りの中から確率的にふるまうわけで すが、その可能性を秘めた過渡状態にある粒 子をこのように言います。

過去とは。
無限通りの未来から一意に行路を確定していく動作が、このコンピューターの役割であるときに、すでに確定された 行路のことを過去と言います。過去はそのコンピューターかあるいはそれに代わる記憶装置に記憶され、任意に参照されてこそ、そのコンピューターが実行した過去として成り立ちます。

現在とは。
命令語のただいまの実行時のことであり、そのコンピューターにとってエネルギーのほとんどが投入されている実行 現場の状態です。

未来とは。
いずれ通るであろう可能性を含む命令語群のことであり、まだ未確定の情報として記述されるのみです。それは無限 通りあるように、おおかたは未実現のまま潜在するだけにとどまります。そしてその潜在した行路の数だけパラレルワールドの展開する下地があったことになります。当然、すでに一意の行路で通過後の過去には、未実現のパラレルワールドがあまた放置されてあるわけです。

パラレルワールドの発想は古典的科学者には無理なことではなかったでしょうか。というのも、宗教的に否定されね ばならなかった話だからです。だから、今の 今まで多次元時空の話題の出る幕がなかったのだと思います。

神が与えた予定のラインはただ一通りでなくてはならないという宗教的規定があります。そこに神の恩寵なりその逆 があれば、神の意向で予定が変更されること もあるという例外規定が認められるにとどまりました。

また、予言がいくら正確に出されてきても、当たったためしがほとんどないときに、それを以て、偽預言者あまたあ りといった解釈をするのが宗教の常です。そ うではないのです。

アカシックレコードにはこう記載されていた。それを異界から持ってきたのに、実現しなかったというのは、観測す る個々人がそれとは異なるパラレルワールドを選び取ってやってきているからなんです。こうして予言はあてにならないものとなる。

むろん、ただの売名行為や偽情報で怖がらせたり喜ばせたりするための捏造は多々あるとは思いますが、そうでない 生の情報もあるということです。が、当たら ないことになりやすい。

まるで、予言とは粒子性と波動性を兼ね備えた不確定性下にある事象のようです。蒸着された記録であるアカシック レコードよりも、観測する光である個人のほ うが、量子的にふるまってしまうのです。

その時空を選び取る観測者個々人のことを、私は創造主と申し上げています。無限通りのルートある中からルートを 一意に選ぶ行為というのは、まさに何もない虚空から任意の未来を形作ることに似ていますから、創造主と言うわけです。

ノイマン型コンピューターをベースにして 推測できること

(一) 観測者中心天 動説

旧式の同コンピューターでも、ベースレジスタを備えていて、プログラムをどのメモリ位置にローディングしても矛 盾なく(同じ結果が得られるよう)実行できるようにしてあります。プログラムの開始点のアドレスをベースレジスターに置くことで、あとの部分はPC内のメモリ空間における変位として掴めます。

我々の場合、ホログラムメモリの上のプログラム(時空プログラム)のうち、自分で実行したい部分(ある人物の一 生)を自分のPCにローディングしてきて、それを自己中心系のイメージ空間の中で実行するわけです。ホログラムメモリ側には絶対的なプログラムが置かれていたとしても、量子的に可能な範囲を自己のPCに呼び込み、限られた選択肢にすることもできるし、あるいは許容度を上げて、無限通りを実行可能にしておくことも可能になるのです。

ここで古い科学言葉で言うなら、天動説でも地動説でもなく、観測者中心天動説というものになります。

自分のPCがどこにあるのか。観測にはかかりません。我々が見ている現象とは、命令が実行されて演算された結果 の波頭とその繋がりなのであって、それを除くすべての工程と途中のワーク的演算結果などはみんな潜在する黒子なのです。

(二) 八方、神に保 護された世界

PCの中ではマルチプログラミングが一般的に行われています。OS(オペレーティングシステム。Windows のような)がまずベースにあり、さまざまな補助的、監督者的、外部入出力制御的なプログラムがその下にコントロールされています。

タスクマネジャーでその様子を見るには、プロセスタプをクリックすると数十個のサブタスクがたえず準備されてい ることがわかります。が、実際に我々が画面上で結果を見たいプログラムというのは、せいぜいその中の2,3個のプログラムとその連携であったりするわけです。あとはその補助や監視のために機能し、 また待機しています。

それと同様、現象として見えるものというのは、画面上に臨まれる動きに過ぎないことになります。そのわずかなこ とのために、90%以上の潜在したプロセスが存在しているのです。神とは隠り身のことだと大和言葉は言います。それをも神というなら、まさに大部分の隠り身に囲まれてすごす我々というのは、神の保 護下にあると言えそうです。

ではいったい、我々がもっとも頼りにしまた畏れている神とは? さあ、いったい何なんでしょう。また後ほど解釈 していくことにしましょう。

(三) 多世界並存も お手のもの

マルチプログラミングとは、同一PC内でメモリ領域をそれぞれ異として、複数個のプログラムが流れている(実行 されている)ことを言います。神プログラムが多数ある中、同様に現象生起のプログラムも複数個流れることが可能です。そして、個々のプログラムは、索引してくるデーター領域もそれぞれ独立し、不測 の領域侵犯がないように監視されています。

バグによるメモリ侵犯のときは、プログラムダウン、場合によってはそのエラーでシステムダウン(フリーズしてし まう)になります。しかし、PCが、これも個性ですが、プログラム間のデーター授受において融通性を持たせている場合もあり、その場合はエラーにはなりません。

その好例が夢見です。夢の時空体験は、多くの場合、目が覚めてしばらくすると忘れてしまいます。これは本来、別 プログラムのデーターなので、こちらに渡ってきてはならなかったものだからです。また逆に、こちらの時空の記憶が、夢時空の側で生かされることがほとんどないのも、同じ理由によります。

また、多数のプログラムが並存していても、動かないでいるプログラムもあれば、活発に動いているものもあり、 PCの実行順序の制御は、めまぐるしくプログラム間を飛び回っていたりします。それでも、我々の観測時間に破断がないのは、見かけの時間がプログラムの命令語の実行に伴う観測事項だからです。

このように、PCの性質としての記憶領域の不可侵規則と、プログラムに対して固有の記憶領域であることから、そ のプログラムが終了してスワップアウトしてしまうと(あるいはPCメモリが十分に大きくてすべてメモリ上に収容できたとしても、原則的にデーター読み書きの侵犯が行われないようになっているから、ひとつのプログラムが終了すればそのデーターも破棄され、他のプログラムが利用することはできない)、せっかくの記憶も同時に消滅するわけです。だから、記憶の貯蔵所がどこか別にあってもいいではないかということになります。

その機能を受け持つのが、長寿命の監督者レベルのプログラムであっても、あるいは過去録データーだけを保存しス タックする外部大記憶装置であっても、ある いはオンラインストレージであってもいいわけです。PCではそのようにデーター保存の工夫をしていますし、実際、そのような機構が我々の潜在領域にはあるもののようです。

(四) 同一性能の PCなら同じ演算結果になるが、 それぞれが持つ処理プログラムは相違してもいい

プログラムは、同じ方式を採用したCPUなら、どんなものでも同じ結果が得られます。ここに複数のプロセッサが あったとして、それが同じ方式なら、どれで演算しても結果は同じになるということです。それが一物多観測の同一性です。ある人が同じりんごを見て赤いなら、その他の人も同じ観測結果になります。人類に共通して同じプログラムが与えられているから、同じ観測結果を得るようになっているのです。

しかし、それぞれのプロセッササイドで、個々別々の固有で可変可能なプログラムを保有し二次演算処理するから、 他人とは違った印象や思いを拾うことになります。それは広義の個性とも言うべきものです。そして、結果がフィードバックされて次のルート選択に反映されます。個性の違いによって、選び取る未来が異 なってきます。

(五) リエントラン ト構造プログラムの性質から驚 くような話も出てくる

いっぽう、ホログラムメモリに書かれたプログラムは、それぞれがリエントラント(再入可能)構造になっているだ ろうことが言えます。これによって、パラレルワールドの未経験の領域が、自分のPCによらずとも別のPCによって、実行されてもいいようになっていると予見されます。PCの数が無限数あるなら、パラレルワールドが無限通りあるとしても、すべて精査し尽くされることも可能になる仕組みです。

たとえば、誰か任意の超有名人を、誰か別人が体験したいというなら、それが可能になるという不思議なこともあり えます。私はクレオパトラの過去世があるという人が、あっちにもこっちにもいても不思議ではないのです。もしこの世に霊能者がいっぱいいたら、彼らに見てもらった多くの人々の中から、きっと怒号が上がるかもしれないですね。いったい誰がほんとうなんだ、と。が、正視できる霊能者にかかった場合、それはみんな正解ということになるのです。

またリエントラント構造であることから、自分のPCにおいて時間を逆に辿ることも可能になるのです。つまりタイ ムマシンが原理的に可能になります。ただ し、PCは命令語群を逆順に実行することはできませんから、ある過去にジャンプしたなら、そこを新たな開始点として自己のベースレジスタに登録し、そこから実行を始 めることになります。

ビデオを逆回し再生するようなことが不可能なのは、ノイマン型PCの宿命です。(ソフト的に工夫すればできます が) 死後に経験するという生前記憶のフラッシュバック再生も、写真モードであるか、動画でも小刻みに過去時間にジャンプさせているかのどちらかです。
写真を逆順に並べてパラパラ漫画的に再生することで逆回しも可能にはなりますが、本人にとって意味不明なものになるでしょう。 因果律は、命令語の実行順序によって担保されているものだからで、我々のPCには非因果律性のものを分析し認識するルーチンが備わっていないからです。

(六) タイムマシン の概念

タイムマシンによって起きる事象はこうなります。PCの中では、環境を記述した未来時空のプログラムがスワップ アウトされて消滅し、過去時空プログラムがローディングされて、再開始されるわけですが、本人の身体は保全されていますから、彼の経験してきたことの記憶も保全されたままです。

こうして彼は、自分の脳あるいはマシンに組み込まれた記憶を頼りに、時空航行していくことになるのです。それが タイムマシンの姿です。脳は経験された内容を連合して記憶し、経験的に一連のものとして理解します。いっぽうマシンの記憶は、元に戻るときのためのチェックポイント座標位置と変位時間です。それがさらに進歩すると、連続的なポータルの座標情報として設定し記憶します。UFOは時空間両用のジャンプマシンであり、正確なポータル情報を確保します。

7. 古代思想との整合 

 もとより、古代科学観は超自然現象を含む汎ゆる自然界の仕組みに解答を与えるものであった。紀元前四千年の昔から四大文明に 始まると考えられている古 代国家は高度な数字、天文学を持ち、それに併う高度な宇宙観があった。それは発達を遂げ様々な現在の底辺をなす宗教の教儀に採り入れられている。今最も盛んなのは、現代人のストレスとそこから起る万病の予防のための瞑想学であろう。このため古伝を基磯に様々な応用が試みられている。また、理論の方は、人々に倫理観念をもたせ、生きる上での精神的な虚無から救うものをもっている。もちろんこれは個別における最低限の効果であり、この真価が発揮されれば全体的な精神文明と物質文明の協調的 発展の理想時代も夢ではないだろう。

 しかし、未だに多くの点が謎に 埋もれたままであり、その 良さを疑問視するむきがあるのは 残念なことである。

 その最たる原因は古代智に対す る先入観である。進化論の 考え方からすれば、古代人の方がより思想的に優れていたと考えるのは矛盾したことではあろう。だがここで反論するとすれば、進化論は巨視的な流れを語っているのであり、矛盾を起さないだけの期間内にあってはゆらぎがあっても構わないということを無視してはいないかということだ。進化は試行のうちに創られ、それをもたらす突然変異は細胞レベルの非常に微小な範囲の試行錯誤のくり返しの中のケースの中で起きているのである。生物学的歴史は数億年あるのに、わずか数千年の間に原始人から文明人となり得て、いま正に生態系すべてを全滅させる可能性を近未来に抱えていること自体、進化論を論ずる向きには奇妙なことに映らないのであろうか。

 一説に紀元前四千年を遡る昔 (歴史学で認められていない ので「超古代」という)に現代に匹適するほどの高文明が存在し、各民族が伝承するような「大異変」によって壊滅し、火事場から焼け出されるようにして、精神的、思想的なものだけが持ち越されたとする考え方がある。また一説に、古代人はシヤーマンの側面を持っていたため、慣習的にアカシックレコード(根元的理念)を読む機会に恵まれており、多くの本質的概念を現象の機微に及ばぬまでも入手していたのであろうとする考え方もある。この考え方は拙論で説明できるばかりでなく、現在でも多くの霊能者や予言者、瞑想家の問では定理とされていることでもある。それらを非科学的という名の下に一笑に伏して良いものだろうか。

 筆者の研究では、古事記の神話 は、一方では、現象上にス ケールを異として発生する定型パターンを示す言理念を語るものであり、また一方では過去現在に生じた(生じるであろう)最低二回の時代の興亡を言い表わしていると解釈できている。旧約聖書はどちらかというと、理念の参照を物語る。だが古代インドの叙事詩などは過去にあった驚異的な出来事を物語っていたりする。前者からはキリスト教、ユダヤ教、イスラム教が生まれ、もとあった思想のうち奥儀的なものはカバラ派やグノーシス派などに受け継がれた。後者の奥儀的なものからは、ヒンヅー教、仏教が生まれ、生命の真髄を語り今でも多くの人の思想的基盤となっている。

 では、古代の哲学、宗教思想 が、いかに以上のモデル概念 にぴったりと適合するか、申し上 げよう。

 古代ヘルメス哲学では次のよう に言う。
「神は全ての存在を内にはらみ、 全ての世界を包み込んでいる。中心がいたるところにあって、周辺がどこにも無い円である」と。
これは次のようにして言い表わせるだ ろう。

 実行者は神の光の通路である。 その実行者はいたるところ に観られ、その顕わす範囲は他と不可分に透け込んでいる。理念は神から供給され、実行結果とその観測結果は神の本源へとフィードバックされる。供給と反映の中に、神と自然と人間が一体と なった巨大なサイクルがある。と。

 また次のように言う。

「世界の全存在、森羅万象は神の 一部で、世 界の歴史は神の歴史でもある」と。

 また言う。

「唯一の存在者は限りなく多彩な 形をとって我々の前に現われる。汎ゆる被造物は、この唯一のものから出ている。ただ特性によって分化しているだけである」と。

 時間の流れ、あるいは大宇宙の 歴史の流れは、唯一者の創 りおき賜うた「大目的」をあらわしていく過程である。この大目的の中には善も悪も智も無知も剛も柔も汎ゆる要素が波動的にミッスクされている。それをあらわすために照見の光が投入され、あたかも毛糸の玉をほどく如く索引系(時間軸)を設定して多くの分光により、分担精査されてゆくのである。

 さらに、ヘルメス哲学では次の ように言う。
三つの世界がある。原型的世界、大宇宙、小宇宙。神、自然、人間。魂、精神、肉体。人間は大宇宙の反映であり、同じ 法則に 基づいて作られている」と。

 原型的世界とは理念(プログラ ム)界、また魂、精神はそ れぞれ霊、幽に対応するだろう。
ここには互いに重畳しながら、階層的、独立的であってなおも三位一体である関係について述べられているようだ。まず理念があって、それが大宇宙、小宇宙へと階層的にブレークダウンされ、それが各階層の実行者によって具体化される。そして万物何によらず、魂、精神、肉体の関係にあることを述べ、それらの構造が相似型に成り立っていることを述べているようだ。既にみてきたように神(巨大情報網)-実行者(コンピューターの積分)-人間の脳神経系-コンピュー ターの相似はこのことを証明している。

 また究極的唯一者の本性につい て、プロティノスは次のよ うに言う。
「叡知以前のものである。叡知は 存在者のうちの何かであるのに一者は何かではなく、むしろ全ての個々のもの以前であり存在者ではない。一者は存在者を含む叡知以下の系列のいづれでもない」と。

 すなわち一者は、叡知を投げか け自然を創り出す存在者の らち外にある、元の元たる創り主というわけであるが、奇しくも先述した五節の(8)項の解答が与えられていることになる。

 グノーシス派の宇宙像では創造 以前の原初から存在する世 界に神と原型的世界があり、神が原型世界に投射することによって天上界、宇宙、エーテル、太陽系、地上界などの創造された世界が登場するとしている。また、古代インド哲学では「ブラフマン」は変化して生じた一切の事物の原因であり、ブラ フマンは自己の力で自己 を開展したのであると説いている。また、シナの哲学でいう「太極」は世界万物の生ずる根元 であり宇宙の本体であると されている。

 筆者の研究では、古事記にも超 空間の実在が語られてい る。また神話はもとより、神道哲学的に言えば自然現象の荒御魂(すなわち現象以前の原型的理念)をあらわしたものだとされている。

 さらに言えば、原型的理念は実 現象として生起するまでに は二段階以上の中間段階を経ることすら語られている。そして、我々は末端に位置づけられ、最も適切な名詞「ひと」で呼ばれた。これは「日戸」すなわち「理念(知恵)を世に出す門戸の役割 を担う者」の意である。

 このような古代思想は一体何を 言おうとしているのか、そ れは十分考えてみるに値するだろう。ここでは幾つかの根元的概念をとりあげ、拙モデルがそれによって支持されていることを述べた。

8. 般若心経 解釈

般若心経 解釈

すべて外界と見えるもの、およびそれを観測する五感と認識は、ことごとく仮想現実なのであるという知見に立つことの大事さを説くお経である。

摩訶般若 波羅蜜多心経

観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、
度一切苦厄、舎利子、色不異空、空不異色、色即是空、
空即是色、受 想行識、亦復如是、舎利子、
是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減、
是故空中、無色無受 想行識、無眼耳鼻舌身意、
無色声 香味触法、無眼界、乃至無意識界、無無明、亦無無明尽、
乃至無老死、亦無老死尽、無苦集 滅道、
無智亦無得、以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、
心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠 離一切顛倒夢想、
究竟涅槃、三世諸仏、依般若波羅蜜多故、
得阿耨多羅三藐三菩提、故知般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、
是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚故、
説般若波 羅蜜多呪、即説 呪曰、羯諦羯諦、
波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶。般 若心経。

観自在菩薩が深く瞑想に入り、仏の知恵を見極めようとした時、五 蘊 (色・受・想・行・識)のことごとくが、すべてバーチャルリアリティ(仮想現実)であることを、純粋観照意識によって感得した。
(色とは、現象のこと。受とは、感受すること。想とは、思惟し想像すること。
行とは、反応や行為のこと。識とは、それらの情報を総合して認識することを言う)

つまり、五感を駆使して外界を認識するすべての局面が、仮想現実なのだということが、はっきりとわかったと いうわけだ。

つまり、もともと実体のない世界を、あたかも世界らしく認識しているのが我々であることがわかれば、どんな苦厄からも済度される(救われる)道理であろう。どうだ、舎利 子よ。
(このお経は、仏の到達した解放の境地を、般若の知恵によって達成しようとするものである)

では説こう。
色(外界)は仮想現実と異なるものではなく、仮想現実は外界(現象)と異なるものではないのだ。

つまり、色(外界)とは仮想現実であり、仮想現実が外界(現象)をあら し めているのである。

これはすべてを形作る法則のことごとくが、仮想の上に成り立つという相(すがた)をしているということだ。

だが、仮想現実世界という実態の背後にあるものは(あるいはそれをそうあらしめている意識原理は)、
生ずることなく、滅 することなく、
汚れていることも、清らかということもなく、
増えもせず、減りもしないものである。  (これはプログラムとそれを実行するシステムの世界のこと)

(初めがどこにあるかも、終わりがどこにあるかもわからないところの、仮想現実を生み出す原因になるものがそのようにしてある)  ⇒ ホログラム上のプログラム

このゆえに、表出する仮想現実の内側(背後)にあっては、
(プログラムなど仮想現実形成の素になるメカニズムの世界にあっては)

形作られる外界はなく、それを感得し思惟し行動し認識するというものも なく、
見る・聞く・嗅ぐ・味わう・体感する・思いをいたす、といったこともなく、
それら五感と思いに対応する作用の要素もなく、

見渡す限りの世界(宇宙も含む)もなく、
またいっぽう、想像や思惟によって営まれる世界もなく、
この世の無明(闇)と言えるものもないのに、
無明(闇)の尽きることもない(如くプログラムされている)

またいっぽう、老病死やそれに伴う煩悩もないのに、
老病死や煩悩の尽きることもない(如くプログラムされているのである)

そこで感得してみたまえ。
苦も、苦の原因を知ることも、苦を心の制御で減殺することも、またその制御法や技術すらも必要なく、
そのような知識も必要なく、それらを求めようとしなくとも、
つまり特別な精神修養の知識や知恵をまったく持っていなくとも、悟りを開き、衆生を済度しようとする菩薩衆は、この(すべて仮想現実であるという)般若の知恵に根拠し会得するがゆえに、心が自由自在であり、想いが自由自在で何ものにもこだわらぬゆえに、恐怖するものが何ものもなく、いっさいの誤った観念や妄想や迷いから遠く離れており、
究極の涅槃(永遠の平安)の境地にいつもあるのだ。

過去現在未来のもろもろの仏様たちも、この般若の知恵に根拠し会得されているがゆえに、仏(解放)の最高の知恵の法門に入っておられるのだ。

このゆえに、この原理を知りなさい。
これは偉大な神の真理の言葉であり、
これは偉大な光の真理の言葉であり、
これは無上の、これにまさるもののない真理の言葉であり、
これは三世に比肩するべき何ものもない真理の言葉なのだ。

世間のいっさいの苦悩を取り除くことができ、
真の実のある、虚構でないものであるゆえに、ここでこの般若の知恵の真理の言葉を説き聞かせたわけである。
では最後にマントラの言葉を説いて聞かせよう。

ほんらいはサンスクリット語のマントラであり、それを漢語でおきなおしてこのようになっている。

意味は不明とされているが、編者鳩摩羅什が一生を通じて衆生から蔑まれていた不遇さから、このような悟りの経文 を衆生にただ与えるのは口惜しいと、この言葉の中に、死者を下界に留まらせる呪詛を含ませたとされている。

私も、この経文の効果は、母の死後に唱えるようになって、経験してきたことである。
かといって、羯諦以下の言葉だけを外すわけにもいかないため、心経の読誦それ自体をやめるに至った。

それよりも、鳩摩羅什の悟りの言葉を、経文とともに理解されることのほうが望ましい。

以上が、般若心経という経文である。

9. おわりに

[黄金の宇宙卵]

神の化身サイババによれば、宇 宙の始まりから終わりまでの大宇宙の歴史は、この卵にすべて記載されていることであるという

宇宙全体を記載したプログラムは、宇宙大から原子やクォークの超ミクロまで網羅されている。思惟作用もプログラムと して与えられている。宇宙に生起するす べてのことが予め用意されているのだ。
意識の目(意識原理)はそれに光を当てて観測する賦活の主体だ。彼は純粋観照者である。つまり、宇宙を観測するコン ピューターシステムを作った側の意図そのものであることになる。それはすべての理解者であり、その思いの中に全善な安定が見出せる。
瞑想し禅定するとき、この存在に焦点を合わせるとよい。それは苦界と不安の嵐の海の底深くの海底の堅固な岩盤の下に ある安穏楽土と言ってよい。その性質を 瞑想してみよう。

人が脳を介して人の次元の観測しかできないのは、コンピューターが実行する命令語のサイズが脳の性質に合うように固 定されているからだ。外界として認識するものは、脳という共通の機構的下地が人々にある限り、同様の現象として認識される。コンピューターはそれを順次実行していく行為の中で、時間の経過を生 んでいく。
しかし、コンピューターは本来、実行する命令語のサイズを任意に変化し実行できるはずである。瞑想や夢見は、このフ レキシブルな性質を一部的に現すものである。それはコンピューター本来のすなわち魂の性質であり、人はそうすることで、神の域から地獄までを任意に体験したり、あるいはミクロや宇宙大にまで意識を及ぼすことができる。単なる想像、フィクションに過ぎないというのでなく、その想像行為そのものが創造の原理なのである。

ところが、現代社会というのは魂の希望からは乖離していくばかりであり、観測のフレキシブル性をわざと損なわせ、五 感にのみ頼りきるように仕向けている。
さらに労働の激化やストレスによって睡眠をも妨げて、せっかくの魂の自由時間をも奪い去る。脳は覚醒中にもわずか数%使われるのみで、不自由さの中に鬱憤と軋轢を溜め込み、機能縮退や細胞を死滅をさせて、早期にリタイアしていくことになる。アルツハイマーやピック病、さらに成人病というものすべて、魂の反逆による誘導なのである。抑圧者を跳ね除けよ。大きな世界に思いを馳せ、大局観に立て。

神は、幸せなことに自由度の高い魂である。というのも、人体に束縛されていないからだ。彼がそのつもりになれば、超 ミクロの中も観測してこれる。だが、通常は人間よりも命令語の大きなサイズの単位で実行する者であるため、地球史や宇宙史レベルの歴史体験をしている。人とは観測時間の単位が異なるわけだ。また、フレキシブル性も備えているから、気が向いたら微細にも入り込み、その中を確かめてくる。時間軸の異なる人間界をわざわざ指導するのは、神の心と言っ ていい。
よってある程度、魂というものは、種族によって類別されるだろうが、様々な意識的存在がいて、独自の文化と歴史を、 この宇宙プログラムという素材を使って現出しているようなしだいになろう。地球外知性がおり、スカイフィッシュがいてもおかしくはない。プラズマ生命体がいても不思議ではない。それを否定するのは、局限された観測機能しか持たない者の、さらに想像の芽をも摘み取ろうとする独善思考でしかない。
極論すれば、風になりきることさえできる。子供にはそれが比較的容易だ。だが、大人になると、その能力そのものを放 棄する。

プログラムは、ただそこにあるのではない。観測されるためにあるのだ。風や火がこういう吹き方、燃え方をするように プログラムでなっているなら、観測主体になる意識、すなわち魂が精査実行することができる。
別の角度から見るなら、意識体験はすべて意識の目の憑依の結果で起きているわけだ。プログラム上の観測者の座が、彼 の招かれた座なのだ。そこに憑依してしばらく留まり、観測を続けるというわけだ。人生数十年を送る人間というもこれに然り。

思惟作用すらもプログラムの中に記載された出来事なら、①超コンピューターにプログラムのかかっていない状態や、 ②NOP(ノンオペレーション)命令だけのプログラムがかかっている状態というのも仮説できる。超コンピューターの実行結果をもとに世界を組み立てる人はそのときどう認識するものだろうか。

①は、超コンピューターがその稼動目的を満たすべく作られているなら、なかなか遭い難い状態である。この状態がたま たま実現したとしても、またすぐに次のプログラムが用意されるはずだからである。
この一過性の状態は、プログラムの掛け換え時に偶然発生する可能性がある。すなわち、生前の世界から死後の世界へと 移転する人の死の瞬間などにおいて、偶発的にである。仏教では実際にその認識状態のあることが知られている。

そのときコンピューターはプログラムという修辞されたものを通さずに、観測行為の本質を垣間見ることになる。すなわ ち人は、修辞されない高エネルギーの照見する光そのものの生産現場を見るわけだ。これをチベット仏教では、死の直後に訪れる原初のクリアーライトと言っており、ヨガの熟達者でも遭い難いとされ ている。

いっぽう②は、NOP命令に定義された性質によって、どのように超コンピューターに観測されるかが決まる。まばゆい 光だけの世界なのか、真っ暗闇なのか、それとも灰色なのか。あるいはNOP命令にも特別な性質の付帯するものがあるのか。至福、無限、無辺、無識などが性質として考えられる。

そのとき、人には思惟や行為のすべてを停止した状態が実現しており、その付帯する性質だけが感得されているであろ う。それは人の禅定の結果として得られるものである。仏教ではその意識の状態に住することを、無色界にあるという。

無色界に対し、色界は主体的にイメージのプログラムで織り成される世界であり、色即是空とは、イメージ(色)の世界 はプログラム(空)によって生起するという意味になる。空即是色とは、プログラムがイメージの源だという意味である。五蘊皆空とは心の作用もプログラム上の記載事項であるという意味だ。
また、欲界はまるでウインドウズのOSのように、頭を叩いてたんこぶを作り、また叩いてたんこぶの上にたんこぶを 作ったような複雑怪奇なプログラムが、超コンピューターにかけられて、冷却ファンが盛んに回るヒートした状態を呈する如きものであろう。

つまり、無色界、色界、欲界のことごとくは、迷妄に束縛されたものであることになる。無色界といえどもそうだ。それ は、超コンピューターという存在によっ て束縛が発生しているのである。

つまり、我々において真の「解脱」という境地は、思惟して得られる境地ではなく、超コンピューターの稼動そのものか ら脱却することでしかない。超コンピューターである真実から、自らを解放できるのか。電源を落すことで可能なのか。電源を落したらどうなるのか。未知
の体験となるかも知れない。

インターネットの中の仮想世界に集う人々が増えているという。
すでに、世界人口500万人に及ぶ人が、その中でセカンドライフを味わっているという。
現実にはできないことも、そこでは飾り立てることができ、その中のキャラクターになりきることもできる。
こうして、通常時にはとても実現できない、第二の性質を獲得することができる。
日頃の日常生活をその中で送るライブ。ショッピングもありだ。仮想ショッピングで済ますことも、実のネットショッピ ングも可能だ。不動産選びも、仮想空間において行うことができる。3Dで、新居での家庭生活を味わうこともできる。普段と違う仮想世界の生活を送るという延長上に、現実と仮想が融合しつつあ る。

いっぽう我々は、仮想でなく、現実に生きているという。だが、現実というのは真には本当ではない。
まさにこのネットの仮想現実の仕組みそのものが、現実体験の下地にあるのである。
終わりの時代には、隠されていた真実がすべて明るみに出るとされている。
コンピューターの出現、そしてネット社会。こうした形態的真相が、宇宙の中の小宇宙という相似像の形で表出してきて いるのである。世の中の現象から大宇宙を量ることもできるというわけだ。そうした時代に行き合せた幸運を喜ぼう。
だが、そこまでで悟った気持ちになってはならない。

こうした仕組みが我々の魂のために与えられた意味を理解できなくては、何の悟りにもなっていないのだ。
残念ながら、このプログラム的超宇宙は、決して我々のためを思ってのものではない。というか、このマトリックス主催 者自体が気づいていないのかも知れない ので、そうならば諌める必要がある。

我々の世界にあるネット社会に繋がるための手段は何か。それはパソコンだ。ネット社会は、人々の興趣を増すためにど んどん進化している。ゲームはいっそう多様化し高度化している。ところが、パソコンに向かう我々の眼や頭や人体のことはさほど考慮されていない。確かに画面は見やすく、また疲れの少ない工夫が凝らされるようになった。だが、パソコン(携帯電話もそうだが)から発される電磁波は、非常に軽度とはいうものの、人の脳を直撃し、ちょうど電子レンジにかけるような様子となっている。また、眼では近眼や乱視だけでなく、白内障を発症し易くしている。のめり込む時間に比例して、精神病や痴呆、眼の機能障害、運動不足による成人病を起こし易くなっているはずである。

つまり、戦略的に、人間の機能障害を誘発するように仕組んであると考えられるのだ。
天にある如くが地にもあり、地にある如くが天にもあるとするなら、我々の魂はマトリックス時空に縛られることによっ て、同様の機能障害の危険に晒されては いないか、というわけである。

いや、仕組まれているのではなく、ただ単に、開発者の開発途上にあることの無知のゆえだと仰るかも知れない。なら ば、天においても然りではないだろうか。
そこに、全知全能を仮定すること自体、不適切だ。
自らの身を真に守りたければ、パソコンに向かうことそれ自体から離れたほうがいい。同様に、マトリックス時空を観測 する輪廻からも早々に離れたほうがい い。

さあ、それでもしがみつくべき何かがあるのだろうか。また、いつまでそうしていなくてはならないという決まりでもあ るのだろうか。ここは、いったん、神への忠誠心といった主観的要素を外して考えてみたいものである。

たとえそうしてみたとしても、我々の真の存在意義が未だに掴めないでいるのも、我々なのかも知れない。

10. つなぎ

いかがでしたか。1983年時点の拙論文。何書いてあるのやら
さっぱりわからんと おっしゃる向きもあるでしょ う。

しかし、現在現時点に立てば、あのときから比べて、論の内容もずいぶんと明瞭になってきました。という のも、コンピューターの応用技術が進歩し、多くのアウトプットの趨勢から、宇宙あるいは世界というものがシミュレートしやすくなったからです。

当時の時代に、ノイマン型コンピューターと書けば、その動作原理を理解しなくてはならず、現在において も、たとえ今のパソコンなどがノイマン型の流れを継いでいるとはいえ誰しも、提供ソフトの動作ぐらいは理解できても、PC内部がどのように動作しているかについては、わからない人がほとんどです。

私は、某大手コンピューターメーカーに勤めたときの知識があったため、その勤務のさなかにもこの拙論を 少しずつ創作していたわけでした。もっともベーシックな部類の日立製HITAC8200や8300の動作原理をかじり、次のメーカーにおいて理論的土台を作り、そこを辞した直後に世に問うたつもりの論文で した。

が、経由した学問機関が、超自然現象を相手にする、いわばオカルトを対象とした準学術的団体であったた め、世に公知されることなく、さらにまた情報処理技術のことに疎い老練団体だったこともあって、見込みのほども、疑問のほども提示されることなく、ほんとうに理解の及ぼせる知識人だけがこれを見て、その論の将来性、発展性を考慮してくれたようなことでした。

1990年代から、パソコンも個人宅に普及しだし、かつての計算センターなどで使われていた大型コン ピューターなみ、それ以上の性能機能を持つPCが開発され、ついにはPCの内部だけでバーチャル空間が営めるまでになり、それがインターネットを介して世界と結びつき、共有を深めている状況になり、すでにある人たちは、別次元にあるインターネット空間にバーチャル世界を築き、そこで日々暮らすまでに仮想現実を楽しむようになりました。

そのバーチャル世界の最たる提供スタイルは、ゲームソフトです。クライアントの心的欲求に応えて、その 販売種類数量たるや天文学的なほどになっています。
それがまた、よく飽きられもせず売れている。個々人はもともと、自分の心の殻に閉じこもりたいものなのかも知れません。

これから何十年か後には、人間の感覚器全体に、PCから情報信号を送り込めば、今までディスプレイ画面 でしか堪能できなかったゲームが、全身の機能を通じて臨場体験できるようになるでしょう。

そのあかつきには、今でもゲーム世界に没頭して周囲に目もくれない人たちがいるように、臨場感あふれる 3Dバーチャル世界に、現実を忘れて没頭する人たちが、列をなして体験参加するようになると、容易に想像できます。

そこで同上団体の機関誌に、次なる論文を出して、SF的かつオカルト的ながらも、「もしかすると、我々 において、霊なるものが実体であり、それがこの世に
生命体として誕生し、人生を営み、死没していくその工程と本姿とは、バーチャルゲームのようなものなのかも知れないですよ」と、問題提起しております。 1984年のことです。

死(ニアデス体験)を科学する

この論説は1984年 に日本サイ科学会において
基幹誌であるサイ科学誌に掲載されたものの増補資料です。
1983年に同誌掲載の「超宇宙の仕組みを考えるためのモデル概念」の続編にあたります。

死を科学する

かれの意志に反して人は死ぬ。
死ぬことを学ぶことなく。
死ぬことを学べ。
そして汝は生きることを学ぶだろう。

チペットの「死者の書」(バルド・ソドル)
「おおえまさのり訳著,講談社」より)

 

ニアデス体験の共通牲に見る原型的手続きの潜在

より良く生きようと考え,その方法を模索することは重要である。
しかし死は誰にもやってくるとき,生の対局たる死について科学することは,「真髄的な生」を浮き立たせ,改めて日々の生活の在り方を問い正してくれるので はあるまいか。

近似死体験研究者のレイモンド.A.ムーディ博士は体験者百数十例から総合して,死に瀕した状況や死を経験した人のタイプが,極めて多様であるにもかかわらず,体験談そのものに驚くべき類似性がみられ,それらを総合すると次のような共通要素にまとめられるとした。
苦痛が極みに達したとき、医師が死亡宣言するのを聞く。

ブーンといった不快な音が聞こえ同時に長いトンネルを急速に移動していくのを感ずる。

突然,肉体から抜け出て,現場を離れた所から傍観する。そして自分がまだ,身体を有していて,なお肉体とは非常に異った性質・能力をしていることに気付く。

過去に死んだはずの近親者や友人達がやってきて,彼に手を貸し導く。

慈愛深い輝かしい光の霊人が現われ,言葉によらぬ直接的な意志の伝達により一生を再評価させる。このとき生涯の主要な出来事が一瞬のうちにパノラマ的に再現して映し出 される。

彼は現世と来世の境界を暗示するものから,後戻りのきかない境涯の接近を理解するが,このとき再度地上に戻らねばならないことが何らかの方法で分かってくる。

死後のこれらの経験に魅了され,強い歓喜・愛・安らぎが心に満ちている時のこの反動に彼は抵抗するが,願いむなしくやがて生き返っている自分を発見する。

多分に境界地(河など水域に閑したものが多い)を越えると,もはや仮死から完全死に移行してしまうと考えられる。(これがいわゆる「脳 死」に対応するのだ ろうか)

この延長上には,人は死後,霊魂として生存するという古来より伝統的に支持されてきた死後の世界(霊界)や輪廻転生の問題が横たわって おり,この種の最近の研究はこれに対し肯定約な情報を提供するようである。

さて,これらの移行の過程には,その人の生活や信条による影響は余りみられず,多様な形態をとって顕われることはあっても,夢や幻覚と 異り,鮮明で共通要素に関して定型的であるという。
これは何らかの手続きが摂理として定められているとみてよいのではないか。

かかる普遍的手続きの存在が確かなら,死後の意識存続が延長線上に確からしくなるばかりか,我々の感覚を超えた一大情報系の存在が仮定されてくるであろう。しかもそれはユングによれば「元型」なるものに規定されていようし,なおも言えば生命体の発生分化がDNAに手続きされる如く, DNAすらもその傘下に擁する「超越的な手続き群」の賜物であろうかも知れないのだ。

以上のようなケースがごく一般的な臨死体験のスタイルだというのが、ムーディーズ博士の報告である。

ところが、私はそのような臨死体験の例を自身の耳からは聞いたことがない。

むしろ、次のような例、チベットの死者の書の語るような臨死体験をした人の話を詳しく聞かせてもらうことが、偶然のことではあったが、 叶えられるような経緯があった。

バルド・ソドルに書かれる原型的手続き

古代の死の技術書とされる「チベットの死者の書(バルド・ソドル)」は、臨終から意識原理の移行がなされる中有と呼ばれる期間に,意識 の周囲に起る現象を一連の定められた手続きの流れとしてとらえている。

バルド・ソドルはヨガの技法により釈迦牟尼が生きながらに死に、その間に観てきた体験を語るものとされ、死後の手続きとその対処法を「生前から知って経験」したり,「死後に地上から誘導」されたりすることにより、効果的に解脱に至る技術を語るものとされる。

それによると,死者は中有の四十九日の毎日に渡って試練の幻覚を経験するが,その中で死者は何らかの心理的反応を起こし,その結果、解 脱か転生かが運命づけられていくという。

転生してゆくにも天界・人界・阿修羅界・地獄界・飢餓界・畜生界があり,総じて「六迷界」と呼ばれる世界で、魂にとって長い間に渡って意義の乏しいところとされている。それだけに中有の期間は死者の魂にとって死活をかけた修練場であるわけで,解脱こそが是非とも獲得されねばならないとし てこの 書は説かれている。

恐らくこの書は幾多のニアデス体験の類型話の原型が説かれているのであろうと思われるし,実践ヨガに基づく科学的解釈が微細に渡ってな されていることに驚嘆を覚えるものである。

死後の身体と現象

ソドルは次のようなことを言っている。

死後,人は皆「バルド体」という生前のカルマ(性癖)と行為の記憶をもつ体を有する。そして中有の間は,バルド体の認識能力により情報が外界から摂取されることになる。人はバルドの中間世界をさまよい,これを観察しなくてはならないが,その展開は下表のようである。

表中用語の意味
心霊神経系:心霊体に属する神経系、ヨガで いうチャクラとそれを結ぶライン。ここではイダーとピンガラ。
クリアーライト:精髄的知恵の光。何ものもまとわない知性の有り方、知性の根元的極みで、非常にまぶしい光明として感得される。 

法身(ダルマ・カーヤ):何ものにも形づくられない意識と輝き至福に満ちた知性の融合で、生命と光の源。そして無限の光でかつ、全善なる覚者(仏)の状態。 

報身(サムポガ・カーヤ):映った飾られた知 恵における覚者の状態。 

化身(ニルマーナ・カーヤ):具体化した知恵 における覚者の状態。

以上三身の覚醒状態において人は解脱すなわち非サムサーラの境地におかれるという。(非サムサーラとほサムサーラ(輪廻)の幻影から脱した覚醒状態のこと)  

平和の神々:バルド体の心臓と喉の心霊神経センターから放射される知性の光とビジョンで、大日如釆(ヴァイローチャナ)を中心にした52の救済の神々のマンダラである。 

忿怒の神々:バルド体の脳のセンターから放射される光とビジョンで58の異形の守護神のマンダラである。 

以上の神々は全ての人の知性の中に在るものである。しかし、そればかりではなく、六迷界に相当する知性も併せ持ち、それらの総合されたものが日常の心の状態として現出する。
バルドではそれらの抑制、葛藤が外された純な幻覚が波状 的にやってくるようだ。
 

六迷界:人が傾向として持ち続けた心の状態が欠患を表明するものである以上、それに見合った欠損補填の場が自然に与えられると考えられ、六種類の場所に大別される。 

天上界:欲望で形造られるうちの最上の世界。
極楽もこの一。スエデンポルグの語る霊界とはこのことであろう。 

人間界:東・西・南・北の四大陸が有るとされるが、必ずしも特定した国ではない。このうち、南方が我々の世界でまだしも望ましい所とされ、その他の三大陸は啓発されることの困難な、宗教の発達しない奨められない所であるという。それは宗教(ヨガに比類する)が栄えているか否かに依る。

 

たとえば誰かが死んだとしよう。するとまず,生前に善行を重ねた人やヨガに習熟した人には、死の直後に輝く発光が近付いてくる。(逆に カルマで重濁した人は多くの優れた機会を気絶状態で過ごすという)

意識がそう知覚するのである。それを仏の知恵の光と知って,自らをその中に溶け込ますことができたなら,その人は覚醒し,地上への再誕 生を免れる。しかし,その発光を恐れたならば,残念ながら最高の機会を逃がしたことになる。

しかし,中有の期間に渡って,ちょうどはずむゴムまりのように何段階もの種々の仏智の光やビジョンが彼を迎えにくる。その中のどれか一つにでも同化できたなら,彼は解脱を得る。しかし,まりのはずみはしだいに減衰してくるし,後になるほどバルドの中にカルマが影響してきて、これによって人は錯乱して,純粋な解脱を離れ,いつしか六迷界の再誕生ルートに誘いこまれてしまうのだという。

六迷界のうち天界、人界ならまだましとしても,人間界でも宗教の発達していない国に至っては,その他の界と同様で解脱の機会を削がれた といってもよいという。

よってこの書は,悪くして人間界への再誕生を余儀なくされてもなお恵まれた誕生先を選択する技術に言及している。

私が知り合ったある人物は、若干二十歳の頃に突然倒れ、10日間以上にわたって昏睡となり、その間、チベットの死者の書に描かれるような光景に始まる、最後の門衛とも言える死
者の行先を決める差配神霊とのすさ まじい問答の末、生き返るまでの記憶を語ってくれたのだった。

それによると、まず迎えにやってくる神々というのは、3D映像の形でやってくるようである。だから、生前に2次元絵画の神々によって習熟しても(チベット人はきっとそうしているだろう)、実物とのあまりの差にショックを受けるかもしれないと思えた。予備知識のないその人は、その光景にどれほど恐怖させられたか語ってくれた。

その光景は非常に気持ち悪かったとのこと。
しかも、最も 怖かったのは馬の顔をした怪物が出てきたことだったと。

私は死者の書を知っていたから、それを聞き、馬頭観音 (タドリンやハヤグリーワ)と推察した。

また、最後に出てきた差配神は非常に頑固で、一度決めたことは曲げない主義らしく、それに対して死者は、とてつもない意志の力がなくては対抗し難いようである。しかし、本人が本気で対抗すれば、助言者や弁護士 霊が現れ、支援するようであることも知った。

そのような人の話について、私は新神話に書き残している ので参考に願いたい。

しかし、およその人は素直に死を迎えるのだろう。前出の安らぎの光景へと辿るもののようである。が、私は「生き返らねばならない」と強く決意していた稀なほうの話を聞いてしまったわけである。

素直な人たちは、つまりは、自分たちの知らないうちに次の誕生先が決まっていても、わからずに転生を繰り返していないか、ちょっと疑問を持っていてもいいかと思う。そうでなくては、望みもしない先での誕生を余 儀なくされるかも知れないのだ。

しかし、おかしいと気づいてもいいではないか。人は死に際して、およそが苦痛や苦悩の中に息絶えていく。その先に無痛や安らぎがあれば、安易に妥協してしまうものだ。そんなときに、差配神が次はこういう場所だからな、と彼に優しく告げでもしたら、はあよろしいですよ、となってしまうものではないか。こうして、ほとんど解放されずに輪廻させられているとすれば。

目下のところ、邪神が神界を支配しているのだとすれば、冥土の差配神だって、愛のない頑固一徹というわけではないのだろうか。私は相手がもしそんな連中だったなら、神に遭うては神を斬り、仏に遭うては仏を斬る という手筋に出ることも厭わないつもりである。


バルド体の性質と対処

バルド体は思考機能が生前のままであるに加え,知覚カが増大しており,夢に遊ぶときのような自由度の大きさをもち,意志のカで現象を容易に変容できる。このゆえに、生前に比べて心の持ち方が重要となるかわりに,解脱ははるかに容易であるという。

ここで重要なのは,バルドの経験世界は全て彼の知性の構造であるということである。つまり,彼は自らの心の中をのぞいて経験世界を営ん でいるということが重要である。身近には夢がそう言われているが,ソドルは夢もバルドの一種だと言っている。

夢は多く荒唐無稽であるのに,そうと分って対応することは珍しく,死後についても同様でバルドをバルドであるとなかなか悟れず,多くはここで迷う。加えて,心の持ち方が要求されるので,知的認識以上にヨガの実践的習熟が必要とされるわけである。

また重要なのは,バルドの経験世界は全て空(実体がない。バーチャルリアリティ)であることである。死後しばらくするとカルマに起因す る幻覚が生じてきて,非情な恐怖体験を強いられることになるが,空なるもの(外界)が空なるもの(すなわちバルド体)を害することはないわけで.この原則を知って臨むのとそうで ないのとでは、心理的に雲泥の開きがあるとされる。

思惟の動きに敏感な体は恐怖心と怯弱な衛動に惑わされて,望みもしない迷界に追い込まれていく。ここに無知と知,ヨガ熟達者とそうでな い者の差は決定的になるというわけである。

次表に解放に導かれるための様々をビジョンへの対処法をまとめよう。
表2 解放 に導かれるための心理的対処

死の瞬間
のクリアーラ イトを経験するとき
その状態
に留まるよう に努める。
平和,念
怒の神々が近 づくとき
汎ゆるビ
ジョンを自身 の意識の影,思考形態と認識 し、恐れずに知性を溶かし込むようにする。
カルマに
よる陰惨な幻 覚が襲ってくるとき
恐れ,怯
弱,怒り,驚 き等の感情を起さず守護神に冥 想する。
六迷界か
らのくすんだ 誘惑の光が近づくとき
魅惑され
ることなく, 不動の心を保つ。

表2から分かることは,外界の変化の何事にも執われることのない心理状態であること,とそれ以上に知性のうちの最上のものを利用して飛 躍せよと言っていることである。

知性には善も恵も存在する。それがカルマに従って索かれるとき,善神の慈光や悪魔の脅迫という象徴を通して幻視されるのであり、一番最初のチャンス(死の直後)を除いて,幻覚は幻覚を処する知恵で駆逐されて解放に至らねばならないかのようである。

死者の書を熟読しそうはわかっていても、先の臨死体験者のように、差配神の前で矢継ぎ早の質問攻めにあえば、どうなるだろう。たぶん皆さんの場合は、ビジョンで質問されること
だろう。生前に悪趣味に染まった人たちは、その趣味の光景を見せられれば、ほいほい着いていくのではないかな。そして、はい、あんたはこっちと出口へと誘われ、はいどこそこで誕生オギャーとなるのではないのか。ほら、女体に興味あるあんた、気をつけときなよ。おっ、おいらもか。


精髄句(導引の知恵の言葉)

死者が現在どの状態にあるかを死後の経過日数でみて,その時に応じた知恵の言葉(精髄句という)で死者に状態認識させ,有 利なように誘 導することができるとされている。

これは次のように考えることができるだろう。

四十九日は中陰プロセスの猶予期間として表1の共通の手順が許されるが,この間であれば言葉による暗示によって原型的手順でなくとも生 前の生活環境にあわせた応用的形態で誘導可能であると。

つまり,この間は死者の意識は常に誘導可能状態にあるのに,偶々何も知らぬ我々では,なすべき方法を知らないために,不幸にも手続きの 多くが省略されてしまうのではないかということだ。

ヨガの達人のように魂が覚醒していれはよいが,気絶したり無知の中に錯乱するのが常だとしたら,何と恐ろしいことか。だから悪くても宗 教の発達した国に生まれよというわけである。

精髄句の一例
お-,けだかく生まれたものよ。
依るべき確かな現象のない中間状態での汝の知性は,ほとんど重さがなく,間断なく動いており,汝に信心の,あるいは不信心のいかなる考えが生じようとも大変な力をふるうだろう。
そのために、不信心の事柄を汝の心の中で考えるな。
何らかの信仰の実修を思い出せ。
汝がそのような実修に不慣れであれば,純粋な愛情と敬虔な信 仰を示せ。
「慈悲深いもの」に,汝の守護神に祈れ。

ソドルのいう知性とは

ところで意識は決して会話上の言葉の情報で暗示を受けるのではなく,術者の言葉が端緒となって彼の「知性の中の照応的な多次元の情報 群」が励起され,それが彼の意識に映ずるというのが本当だろう。

だから精髄句をいかに適時に付与したとて,死者が生前に履習していなければ無意味であることは明らかなことだ。また,怒り,嫉妬等の感情は会話上の言葉で表現できるものではないが,知性の中の該当情報群を明らかに励起しているわけで,彼はそれに乱されないわけにはいかない。バルドにおけ る旅とは,当面する知性の中を旅することだからである。

ソドルでいう知性とは,彼個人のものにとどまらない。DNAが全てであるとき,肝細胞はその部分的投影だ。同様にその他の可能性を抑制 されている形態の受けもちが彼の知性と言えよう。

知性とは全宇宙の歴史・構造・法則等を規定する手続きの全てであり,ギリシャの叡知、中国の太極,インドのブラフマンに対応するもので ある。

輪廻の中の経験世界の本質

生前の世界とバルドの世界ではどう違いがあるのだろう。

ヨガでは、どちらも非存在の幻影であり,変わるものでないとしている。(前掲表2などは,ヨガ行者が実生活で基本的に修めていることで あるという)
賢人ミラルパは生と死の繰り返しを一連のものとみなし,その手続きに慣れるようにと言っている。

生から死は肉体からバルド体への意識原理の転移。ソドルは、生前の記憶回路からの生命力の撤退に誘起されてバルド体が生成されるという 準備段階があると言っている。

逆に死から生も,バルドにおける象徴的な子宮への幽閉の幻覚すなわちバルド体の拘束という手続きに誘起されて肉体が生成される過程(勿論このとき現世では肉体的父母の性的結合,受精といった具体的手続きと同期がとれていて,二つの隔たった手続きは矛盾なく進行している)があり、いずれも遅れて意識原理が転移している。すなわち生も死も,ある体から異なる体への意識の再生であるということになる。

大宇宙の構造

ここで現世,死後界を含む宇宙の構造・仕組みに思いが及ぶ。

ニアデス体験談・ソドル・霊界通信・過去世透視等のもたらす情報を総合して、現象とその観測主体である自我の本質について,次のような 推測をするのである。

○ 現象はすべて意識的認識のための暗示的映象で,認識の主体を離れた現象は意味がない。(物理学上の、観測されるまではどのような現 象であるか規定することはできないという意見に通じる)

○ 現象映像の元は超越的な言語で形成されたプログラムであろう。(これを叡知とか知性と呼んでいるのだ)

○ プログラムの索引の鍵はカルマであり,その間には数理的法則性がある。(ケーシーリーディングはその手がかりを与えてくれるだろ う)

○ 意識(自我)は経験世界の観測から生じていて,第一義的ではない。第一義的なのは意識原理であって、これをとりまく経験世界は一種 の実験炉のようなものとして捉えられ、バルド体や肉体は実験炉の中のセンサーとしての機能をもっていると考えられる。

これらのことから現象とその認識の本質,いわゆる宇宙と意識の構造がホログラフイック・コンピューターモデルによって説明できるものと 考える。

それが、「超宇宙の仕組みを考えるためのモデル 概念」である

これにより、仏教やヒンドゥー教の教理を旨く説明できるだけでなく,現代物理学にも準拠しているため,古今科学観の融合をはかるための私案として提示できるものと考えている。ただ、モデルの性質から推測することゆえ畏れ多く,また真相のいくばくを語ることができるとも限らないが,次のよ うな未踏の諸問題に説明が施せるかと思われる。(以下手短かに)

夢と潜在意識の解釈

夢と現実の間には相互に記憶が持ち込まれないことが多い。持ち込まれるときは何らかの合理的変換がなされてのことである。また、過去のふとした思い出や記憶をたどる行為は、記憶したときの心的状態に偶然もしくは故意に近づけたときに関連する。(睡眠に落ちていくときに前回に見て忘れていた夢を思い出すこと がしばしばある等)

物理学上の量子と同じように,意識にもそれが定在すべき、とびとぴの状態があるらしい。それは状態ごとに記憶領域と記憶保護機能のある コンピューターのマルチプログラミングモデルでモデル化できる。

また一つの定在すべき意識状態においてもゆらぎがあり,知性への微同調の仕組みがあるとみえ,現在の心理的状態の同調したものが顕在意 識であり,もれたもの全てが潜在意識の領域に押し込められると考えられる。

つまり記憶力も想像力(創造力)も「脳力」に関するものは,ほとんど心的状態の可変自在性に依存する。

長じるに従い現実的傾向が出て,意識状態の底が浅くなり,様々な能力が消失するのは一種の心の仮性近視であるにすぎない。
ヨガは決して 特殊能力を磨く術なのではなく,心の自在性を復活する訓練と言える。

意識の連続

生死,そして体の変遷は意識原理の旅する知性の種類が変わることだが,逆に言えば意識原理が中心にあってあまたある知性(プログラム)から選びとるという のが本当である。(この観点から当モデルはつくられた)

そこで解放とは,外にある知性を離れて,汎ゆる仕組みから超越することである。

人間界の誕生の仕組み

バルドの49日の遍歴の結果,再誕生先に関する知性に行きつく。それは彼が最終的に心理的安定をみせた知性の構造体である。
次にそれと照応的な経験世界のプログラムが供与される。彼はそれまで意識の鏡にバルドの知性をそのまま写していたが,今度はそこに二次的な(照応的な)時空の展開を写し,その中で二次的な拠点(肉体)を介して観測されなくてはならない。(肉体にしろバルド体にしろ,それが持つ感覚器は全て暗示状態をねつ造し,継続させるためのものでしかない。特に照応的体(肉体)ではその働きが局限されるため、暗示状態はより拘束的なものとなるわけだ。よってヨガの修業は,まず感覚器官の心理的滅却か ら始まるとみられる)

心霊の問題

知性の多階層境造性に起因して霊・霊界は在る。スエデンポルグの観てきた世界は知性により飾られたもので,ソドルのいう天界に相当する だろう。

霊の発生,分化も有る。これは唯一者の知性を本源的時間の流れに乗り,分担精査する必然性から生起されると考えられる。この必要性こそカルマの本質であろう。また霊体は複合体,重合体でも有りうる。本質的には全てが知性の構造上繋がっているからである。意識原理(個我の元)はそこに短期 間とどまるにすぎないのだ。

霊の進化は,本源的カルマ(役割)の消去と母源的知性への復帰を言うものだろう。つまり分霊された理由の消去による拘束的な階層構造的知性からの漸次脱皮である。こうして最終的には全知性の精査の成就と全霊の融合(「全成就の知恵」とソドルは言う)が果たされると考えられる。

スエデンポルデが言う霊界の結婚(2つの霊が霊的親和感で結合し,以後霊格優れた1つの霊として生まれかわる)や性格の類似により集ま る霊団体と組織(町や村)の存在はこのような考え方で説明できるのである。

総じて経験世界の意義

バルド・ソドルによると,知性は意識原理を離れて意味をもたないし,かといって後者は前者を必要とする訳でなく,かえってそれによらない状態が本当だとしている。つまり現象は,あるいはそれを在らしめる知性は,一種の制度(方便)ということになろう。

では現世に意義はないというのだろうか。

現世とは変化極まりないカレントな意識経験の場であるが,日々刻々の中に幸福と進歩を希い一層の努力を重ねている構図は,いかなるあなどりの感情も生ずるものでなく,ただ偉大であり,感嘆の想いを起さざるを得ないのが本当である。ソドルの矛盾なのか,それと
も我々の無知によるのか。

このためには,この制度の目的を考えてみるべきだろう。

神仏の御心を推量することゆえ畏れ多いが,一説には魂の教育システムなのだという。ある霊界通信によれば,霊は当初荒けずりで、幾多の経験を通して進化して円熟していかねばならないという。仏教ではその卒業形態を成仏とし,それに至るまでについて,法華経は,誰でも個性に応じて最も効果 的に覚醒に至るべく導かれることになっていると言っている。

また一説には魂の懲罰システムなのだという。つまり、精神は一定の条件が満たされるまで非情さと、とりとめのない夢遊の錯乱状態におか れるというわけである。

また,一説には,神の全像開顕と,それへの奉仕説である。先程も述べたが,神は全知性であるが、それを展開していくために、分担して受けもつ分霊があまた必要だということである。分霊は特質をもった知性を受ける以上、欲望を内在させてそれに応じた偏向した性
質を示さねばならず,これゆえ 神に比して無知な形態としてあらわれるのはやむをえないとする。

前二説もさることながら,我々は第三番目の説に注意したい。バルド・ソドルでは人間界それ自体の価値が否定されたが,それに意義を見出すとすれば,この説以外にはないだろう。また,神とその表現である宇宙を生命体と考え,「神と人間が相似かつ不可分の関係にある」という生命観に裏打ちさ れている。

特に「神の役割」の活在は,次の最もオーソドックスな霊界通信にみられよう。死は好機とはいえ,では自殺はどうか。自殺者や無謀が原因の死者の魂は(役割の放棄ゆえか、救いの導きに遭うことなく)暗くじめじめした虚無と隔絶(の知性の状態)に落ちつき(次の転生までの非常に長い間)苦悶 するという。当然,転生先も,そのような知性の延長上にあるはずであろう。

逆に他人を助けその反動で死亡した者や善行を積んだ者は霊的進化を早くされるという。このことから役割が善に基盤を置いた厳然たる実在 であることがうかがえる。

そこで推測するのであるが,全ての時間が神を前提としてあると認識して善良に行動するとき,自然の行為が,また真の道徳がとりおこなわ れるものではないか。(これを老子は「大道」と言ったようだ)

そのとき,全ての時間において輪廻の経験世界の中にあってなお覚者で居ることができるのではあるまいか。

筆者の浅白な思いつきにすぎないかも知れないが、こう考えてみたとき一つの隠された精髄句を発見したような気がした。

「解放は至上である。しかし再誕生を余儀 なくされた者には, 特に神が選び賜う仕事がある。それは神の全像を幾多の仲間と分担し体現する仕事である。再誕生先で強い役割意識をもってそれに取り組め。汝自身の思惟,行動,その結果,結果の及ぼす影響、それらの全てが汎ゆる瞬間を通じて神への奉仕(犠牲)の形態なりと認じて事に当たれ。そして次の機会に備えるように。こうすることによって,汝は堅固な映し世の中にあって、生きながらに解放されるだろう」

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇  ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

もしかすると,遠 い将来,科学が発展したあかつきに,宇宙の知性を直接映像化して見せる装置が創られるかも知れない。(それができてこそ,真の科学技術時代と言えるだろう)

そのとき,我々は肉体を危険な目に 遭わせることなく,膨大な知識を短期のうちに身につけるようになるだろう。犬や猫,銀河や素粒子,生物・非生物を問わず現象のありと汎ゆるものの仕組みと変化の全てをである。

だが,ものの心が知りたいとなれ ば,また肉体人間の能力でそれが受容できないとなれば,意識を知性に直結することもおこなわれる。すると彼は元の記憶を薄れさせて,知性で形造られるものの主体になりきって,そのものの心を実体験的に識るようになるだろう。(今から二万年も前の失われた古代ムーロア文明に,このような催眠学習システムがあったようである。トニー・アール著「ム一文明 の発掘(大陸書房)」を観られたい)

だが,もしかするとその究極的に進 化した科学とその利用形態は既に我々の中に在って、「霊」や「魂」と呼ばれるものの本姿なのかも知れない。


雑感

超宇宙の仕組みモデルから想像できるこんなこと

ソフトなら・・・タイムマシンなど当たり前 人生のプレイバック&リスタートが利くはず

2013年末までにわかったこと。

私は全人生をプレイバックで総なめしているら しい。

私の世界観、宇宙観は、彼自身が独創した超宇宙の仕組みを解くモデル概念に基盤を置いている。
それによれば、人はわりあい、不思議な人生を刻んでいるはずだ。(ただし、人がプログラム上のダミーである場合を除く)
その中には稀に、プレイバック・リスタートという、ソフトウェアプログラムの性質を活用している者もいるだろう。

それでなかったら、通り一辺倒の判断選択の泡沫に帰してしまうだけでは、あまりにも勿体ない。
なぜならば、たった一人の人生も、非常にたくさんのパラレルワールドへの可能性をその中に含んでいるからである。
むろんそれも、普通人の人生ならば、そのほうがいいこともある。カルマの清算だけにやってきて、悲惨な人生プログラムの選択肢すべてを味わうなど、過酷すぎるからだ。もしかすると、過酷にすぎる場合、魂は哀れにも、発狂してしまうことだろう。そういう根腐れの仕方もあるのだ。

だが、救世主の人生を味わいたくてやってきて、もし途中で別のパラレルルートに逸れてそれでゲームセットになったなら、何の意味もなかろう。クライアント 本人からすれば、そのソ フトを下馬評通りに完遂したいはずだからだ。

人生の様々な局面にパラレル分岐の機会があって、噂に聞く天下取りのルートに 乗っておれるのは、よほどのガイドがあってのことで、一発勝負でゲームに臨んだとて、なかなか叶う話ではない。(ガイドとは、この人生ゲームについて熟知した守護霊のことである)

ゲームソフトで、信長の野望などといったゲームもあった。それにトライして、まっとうに天下統一まで達成できることは、やっていてとても困難なはずだ。突 然、敵に意表を突かれて、命を落とすこと(ゲームオーバー)もある。
それで、残念でしたで去っていくとすれば、あなたの目標は達成できたことになるのか。
もしかしたら、光秀に討たれずに天下取りを完遂する手順だってあるだろう。

世界の信長にだってなれるかも知れない。

そこで、プレミアム契約していれば、最寄りの分岐点の少し前まで戻って(プレイバック)、やり直すこと(リスタート)もできるかもしれないだろう。それ は、ちょうどPCのシステム復元のようなものと思えばよい。直前までに辿っていたタイムラインの記憶はこのとき失われるから、自分はあたかも最初から一連のタイムラインの経験しかして いないという記憶しか残らない。

彼は死ぬ間際、一本の人生を描き切ったと思うかもしれないが、人生は多数のタイムラインを経過した結果の総集であるかもしれないわけだ。それを確認するすべはない。ただ魂の資質にフィードバックされて、この人生を辞するときに、エントリー開始時点とはかなり異なった資質を獲得していることに気づくだろう。

また、デジャビュー現象は、プレイバック理論を支持する好例だ。
分岐点を通るには、時間的にその前にポジショニングされねばならないから、たまに復元位置から分岐点までの記憶が脳に蓄えられていて、その照合がマッチするから、デジャビューという記憶蘇りの不思議現象を起こすのである。またデジャビューの瞬間それ自体の経験にさほど価値があるわけではないことも、お わかりになろう。人生の分岐点はそのどれほどか後にやってきているからだ。

 

映画「マトリックス」との出会い

私は、超宇宙論を思考したことにより、1980年代あたりから、自分スタイルの悟りの境地を 持つこ とができました。しかし、内容を日本サイ科学会から公にしたとはいえ、何の反応も感想もありません。私も、いろんな折衝の努力が必要とも思わず、放っておいたことによるのかも知れません。学会と名がつくだけに、権威の階層構造をクリアーせねばならなかったと思います。

ただ無意味に、宇宙に対して発信し続ける「宇宙人もしいたら応答せよ」といった心の中だけの電波発信のような気持ちで、ずっといたことも事実です。それから何十年経った今でもそうです。それを誰と共有することなく、人には伝わらない想いとして、自分ひとりの人生の獲得成果として、このまま 埋没してしまってもいいと思うようにもなっていました。

しかし、人から伝わってくる直接的な反応はなくとも、人が作ったものから、お前の発想はなかなかいいぞ、と反応がありました。1999年から2000年にかけて制作された映画「マトリックス」の上映です。その作品に篭められた哲学思想は、世界的にセンセーションを巻き起こすことになりました。そして、それを見た人たちの多くに、もしかしたら我々は、ネオたちと同じように仮想現実の世界に、そうとは知らずに置かれているのではないか、という思い(不安)を惹起しました。

いっぽう私は映画を見て、自分の説が正しかったと信ずることができました。真理探究のひたむきな心と、自分のしてきた仕事から得た知識がみごとマッチングし、理論として成立したわけでした。それまでの思考葛藤の経過に無駄はなかったと思えたほど、この映 画の存在は大きかったのです。

私が2000年以後よく耳にしたのは、ごく親しい人たちが心の中をざっくばらんに打ち明けたときにする、社会に対する諦観と絶望感に満ちた感想、「この世はマトリックスだからな(我々の力ではどうにもならんよ)」というフレーズでした。マトリッ クス効果とでも言うべきほどに、このエンターテインメントの力はすごいものでした。

ハリウッド映画というものは、世相を恐怖で虜にするもののようです。ハラハラドキドキは、おそらく人類の趣向でもあるのでしょう。私は思うに、それは悟り (真理)の一側面ではあるものの、それだけが強調されたのでは、人々は諦めと絶望に浸るしかないのではないか。それこそ救世主が現れてくれなければ、いつまでも絶望の 海に沈んでいなければならないでしょう。

そうではない。この理論のすごいところは、個々人の創造主としての立場が証明できることにあります。釈迦が発した悟りの言葉「天上天下唯我独尊」が、如実に個々人の発するべき言葉になるのです。それは、マトリックスの仮想現実閉鎖空間に閉じ込められた絶望を、はるかに凌駕する概念です。私は、そのことを教えたい、教えねば、世がもたらす真理の顕現も片手落 ちになるとの思いを持ちました。

また、先に示したサイババが口から取り出して信者の前に掲げた”黄金の宇宙卵”の写真は、サイババからの直接の激励と私は信じています。その写真はインドにサイババに会いに渡った友人がインド土産にと持参してくれたものです。私はそれまでに3回、立て続けに危難が降りかかる思いがしてサイババに危難排除の祈願を手紙に篭めて出し、そのいずれも無事に済みましたが、この写真を友人から受け取ったとき、サイババがすべてを見透す神の化身であることを知ったのです。なんとおそらくサイババは私の研究にも関心を持ち、信者のひとりに対してされるであろう激励と祝福のプレゼントを下さったのだと解しています。

そのサイババがまだ若い頃に残した”人というものの宿命を歌った”詩が、彼のことを書いた著書に載っていました。それは仮想現実のシミュレーション仮説をそのまま物語るものでした。 ⇒ https://cloudy.xn--kss37ofhp58n.jp/archives/423

PCの醸すバーチャル世界創造の進歩とその先に見えるものは

さて、いっぽう、コンピューターの性能的進化に伴い、開発されるソフトも大型化し、その顕わす内容も格段に進化しました。オフィスビジネスユースだけによらず、人々の趣向をウリにしたゲームソフトが、いっそうのビジュアル性を増して登場してきました。コンピューターRPGなどは、その映像美、物語性、操作 性の向上を競い合ってきました。

単独のPCだけでは他者と競い合えないことから、同じRPG世界を共有する場をネット上に展開するオンラインRPGは最近の主流でしょう。そこへの参加者は、仮のキャラクター(アバター)をおろしてその世界の価値と道徳や規則のもとに活動し、他者とさまざまな価値を共有するわけです。

キャラクターを操作する主は、その世界(仮想世界)とは別の世界(現実世界)にいて、キャラクターの活躍や生き死にに関係ない立場から、操作を楽しみ、成果の獲得を喜んだり、操作技術不足を嘆いたりしているわけです。画面の隅には、獲得点数や反則点数が載っていたりします。場合によっては、力を現実世界のお金で買ったりもして、そのゲームに打ち込むわけです。

それはまるで、心霊学にいう霊界と人間界のオーソドックスな話とそっくりではありませんか。霊は肉体の主人で意思を持っているものの、気体のような存在で、目に見えない。それは人間界(ゲーム世界)から見たときには、操作する主人の姿が見えないようなものです。見える必要がないものです。しかし、現実の操作者には、ゲーム世界とキャラクターの行為が見えていて、それで事足りる。

ゲームによっては、いっそう操作性を難しくして、技量不足が問われるようにしてあるとすれば、独立した立場の操作者さえも焦ったり困苦したりすることでしょう。うかうかしていれば、自分のキャラクターがどこに行ったか見失う。だから、真剣に向き合わねばならなくなる。それが技量向上を目標とする価値感になり、多くの他者とそれを共有するようになれば、そこに「進化を目指す集団」ができたりするわけです。

もしかしたら、我々はすでにそのような共有されたゲーム世界の参加者になっているのかも知れない・・・
とすれば。そのような展望から、映画マトリックスも生まれたのかも知れません。

さらには、操作者の見るのが平面(2次元)のディスプレイ画面でなく、3D立体ホログラム画面へと進化することでしょう。そこに操作者の脳神経からの直接信号でキャラクターが動くまでになれば、またそれが双方向の情報のやり取りが可能になれば、操作者の観測し認識する世界は、彼自身を取り巻く環境そのものになったりも可能です。彼は臨場感を持って、そのゲーム展開の局面にはまっていくことでしょう。ゲーム世界の時間経過とともに、元あった現実世界のことも 忘れて。


最新の科学情報から

wired.jp/2010/11/04/「宇宙ホログラム説」、超高精度の時計で検証へ/

われわれの体験する3次元宇宙は、2次元における情報をホログ ラムのように投影したものかもしれない――「宇宙のホログラフィック原理」を検証する実験が、フェルミ研究所で行なわれようとしている。

DaveMosher

われわれの存在は、超高解像度の3D映像のようなもので あり、有限の帯域幅で「コーディング」することが可能なのかもしれない。そして、われわれの愛するおなじみの3次元は、2次元での情報をホログラムのように投影したものにすぎないのかもしれない。

この仮説[「宇宙のホログラフィック原理」]を検証するべく、100万ドルを投じた実験が行なわれようとしている。米国イリノイ州にある米フェルミ国立加速器研究所で実験設備が建設中であり、来年中に、世界最高精度の「時計」を2台用いた実験が行なわれる予定だ。

フェルミ研究所の素粒子宇宙物理学者CraigHogan氏は、世界で最も高精度な時計2台を用いて、プランク単位の存在を確認するという画期的アイディアを実行に移そうとしているのだ。

空間、時間、質量など、宇宙の諸特性の最小の大きさを表わすも のをプランク単位と呼ぶ。これらの単位は非常に小さいため、実験によって確認することは不可能なように 見える。た
とえば、長さのプランク単位[
プランク長]は、陽子の直径の10の19乗分の1しかない。

・・・・・・・・・・・・・

いかがでしょう。プランク単位は私の理論におけるコードの最小単位になるものです。それがプログラムを構成する命令語の最小単位になるのです。

それが検証できたときには、次のような概念が一般的になってくるということです。

宇宙はホ ログラムによる巨大なイリュージョンの世界

どうやら、我々の「脳」そのものも、この壮大な宇宙マジックの企画に加担しているのかも知れません。そして、全体的に、ゲームソフトの世界に加入し ている我々の現実を知ることになるかも知れません。

拙論の発想に至るきっかけ

拙論の発想のヒントになったのは、1970年代に第一次UFOブームがあって、その頃の宇宙人情報の中に、外界に展開する現象の最小構成単位が、まるで磁気コアメモリーが磁化され、そこから観測情報が取り出されているかのような話があったことによります。

当時の私は、ノイマン型コンピューターの初期モデルの動作原理を、メーカーで習得中だったことがあり、真理探究の志とあいマッチして、もしかするとコンピューターを使って、大宇宙をもシミュレートできるのではないかと思い立ったのです。というのも、当時、私は初めてUFOを目撃して、その方面に関心を寄せていたものですから、宇宙人のもたらしたとされる情報には特に期待していたのです。

また、先に記事にしましたように、古事記の神話の出だしに別天のコンピューターによってこちらの世界が創られているといった、超古代的な驚嘆的情報が直感されてましたから、この論の推敲と並行して古事記神話の解読も進めていた次第です。

むろん、概念化は趣味の領域のことで、メーカーでの仕事をしながらのいっぽうで、息抜きのために思索にふけっていたようなことでした。

また、それより早い頃に、行動生物学の観点から、生き物たちの愛情行動(子育てなどの際に親のとる行動のすべてに、豊かで情感あふれる愛情表現が繰り広げ られ、それが我々人間の行動の在り方を指し示すものにもなっている)やさまざまな本能的活動の機微、微細にわたって、「信号と反応の連鎖」という情報のやり 取りが関わっており、その連鎖が一連の愛情表現として露出しているのだという考え方がありましたから、人間と生き物とは異なるのかも知れないとは思いながらも、意外と自然界の営みは情報のやり取り、その連鎖で成り立っているのではないかという思いがあったことも、このあたかも(神に対して)不敬そうなモデル採用をため らわせなかった理由になろうかと思います。

おりしも科学界は、物理学をして自然界に数理性を求めそれを記述できないものかとしてきましたし、その方向も大宇宙の営みに潜在するコンピューター性を模 索しているように感じておりました。

だから、拙論は宇宙運行の統一モデル概念として提示するものであり、コンピューターの中ではどんな演算式が実行されてもかまわないが如く、この世界に適用 される自然界の方程式がどのようなものになろうとも、動作原理を満たしているなら、何ら構わないことになります。
それはそうでしょう。PCの処理特性を満たしたプログラムなら、どんなものもかけてよい如く、PCが可能であるなら、まったく性質の異なる宇宙を記述する プログラムだってOKなわけです。

個々のプログラム宇宙を研究するのは、無禄でハングリーな私などの推敲することではなく、豊かな金銭的俸禄を食む頭脳優秀な現代科学者様がなさるべきことだと思っております。
私は神様の俸禄を食みながら、基になる統一運行原理の解明だけで十分に満足しております。

私の概念の提供するものは、神の領域のハードウェアに直結した部分のモデル化概念であり、神様がみなさんに提供するソフトウェアたる自然法則の部分は、推敲上の参考にとどめるのみで、私の扱うところではないということです。しかし、ソフトウェアは一般的に、どんなものになるかが推理できます。それがこのコ ンピューターモデルのいいところでもあります。


(このようなシステムを我々にお与えになった)
神様は人類よりどれほど進化なさっているか

我々がこのような進化したコンピューターの中のホログラフィ的現実にあるとした場合、最も下位次元のシステム提供する神にあっては、ずばり1000年ほどでしょうか。つまり、我々が目撃し生活しているとしている世界を創ったのは、紆余曲折時間も含めて、1000年ほど進化した神人だというわけです。

問題はそうしたスパンではなく、突然にして量子的に進化している神人の手によるものなので、中身を語るなら、何万年と言ってもいいかも知れません。が、彼らがやってきているのは、今から地球時間で1000年までのところからです。宇宙は空間的距離だけで測れるものではありません。


モデルたるコンピューターの進化の行く末を見れば宇宙へと辿り着く

記憶装置の大容量化、処理プロセッサ(CPU)の高速化、そしてハード面での長足の進歩がもたらした最初のものは、ホログラムメモリの開発でした。これにより、CPUの性能も電気的な2次元的賦活方式から、光的な多次元賦活方式に変わって格段に向上していくことでしょう。

それに伴い、演算結果は多次元的ホログラフィーとしてアウトプットされるようになり、そこから生まれる映像の精緻さ、細部までの綿密さは、我々が見ている 現実とほとんど変わらなくなります。

人が一生の間に経験する情報量は限られています。生活にほとんどの時間を費やし、また人生の1/3~1/5は睡眠時間です。星や宇宙のことをペーパーで見 て想いは馳せても、自分で見てくることはまずできません。

彼の必要な情報、入手できる情報とは、手に届く目先のことがほとんどです。宇宙のことは、そこに見えているから考えるのであり、考えるのは自由だが、行き着くことはまずないところの、一種の映画のようなものとも言えます。

宇宙があるなら行ってみようということになり、その需要に対する必要性から、後天的に宇宙環境がオプション的に付加されたのかも知れません。(まあそ のようなことは、誰も思いもしないでしょうが。私が唯一の発案者なので

我々がもし不老不死ならば、容易に見つけられたバグも、たかだか100年ほどの寿命であるなら、おそらく気がつかないであろうことも、もしかしたら短寿命の理由なのかも知れないことに思い至ります。(まあ誰も思い至らないでしょうが。私が唯一の発案者なので

また、何度か大きな人類文明時代が興亡したと言われますが、どうやら知識情報の蓄積が重ねられ、事の真相がわかりかけた時点で滅亡しているらしいことも言えそうで、いっぽう時代の初期を飾る神話は、人類が神に近づきすぎて滅亡の災難に遭ったとも言っているのです。

真相を知られたくない神がいて、知りたくて仕方がない人類がいて、それをまたある程度まで許容する神がいる。そんなところから、多くのことが推量的にわかってくるような気がしませんか。(まあ誰もわかろうとしないでしょうが)

コンピューターで仮想現実とその創作物語が作れるくらいなら、ほとんど誰も行くことがない宇宙の様子を情報的に記述することははるかに簡単です。それを天 体望遠鏡で見たとき、意味深な映像美を目にするかも知れません。

まるで神の目がこちらを見ているように見える、それらしい写真もどこかにありました。
しかし、そこにボケがかましてあるため、見る者にこんな造形もあるのだなあと、いっそう神の高度な仕業に崇敬の思いをいたさせるわけです。

しかしもしですよ。それがはっきりとした目として見えたなら、あるいはその目が短時日のうちにウインクしたりしたなら、見た者はおそらく卒倒するか発狂し てしま うことでしょう。
そしてあらゆる情報隠蔽が施されることでしょう。ちょうどUFOや宇宙人を見た人のところにMIBがやってくるように。

みなさんは、生活空間の四方八方の隅っこに、何か見張り番のような黒子のいるのを感じませんか。秩序が乱れてはいけないのでそれをしてくれている反面、領域外にはみ出すことを禁じている感もある存在です。(まあ誰も感じないでしょうね)

しかし、そんな中にあっても、天下御免の素浪人のような私のようなものもいて、いやはや世の中、変に面白く作ってあるではないですか。

未来予測をしてみよう

当モデル概念を用いた未来予測

コンピューターをモデルにした超宇宙の仕組み、概要はお分かりいただけたでしょうか。

では、拙論をもとにして、地上にもたらされているさまざまな予言や奇跡も参考にしながら、これからの未来を予測してまいりましょう。

私がもっとも重視する奇跡とは、歴史上のある段階で、神が直接、人々の前に現れて直言を与えたという話や神が降臨して自動書記させたという話、タイムマシンでやってきたというタイターの話、そして世の裏側を操作していたとされる秘密結社の未来に与えた最高指令、シナリオ、こうしたものが私の前にシンクロ的 に提示されてきた重要なマテリアルになります。

予言でもっとも重視できそうに思ったのは、ヒトラーの語った予言です。そして、今先に述べた奇跡にも予言にも共通する事項があります。それは、未来人の関わりという共通項です。拙論から導けるのは、時空の各方向に自在展開できるマシンの存在でした。UFOは空間方向、タイムマシンは時間方向、そして当然な がら、両者ミックスといったマシンもありうるでしょう。

そればかりか、我々自身、この世というバーチャルリアリティ世界に何らかのキャラクターを背負って下ろされている可能性も、最近のPCの性能を極限まで駆使したようなゲームソフトの数々を見れば一目瞭然でしょう。そこで他者と繋がるのに、オンラインを介せば、造作もなく大衆社会がバーチャル空間にできあが ります。

そこには、画面に釘付けになっているクライアント(あなた)ばかりか、サーバーの側からあなたたちの動きを監視していたりする人々もいる。そこは冷たいテクノポリスのビルの一角であるかもしれない。そのようなところから、あなたの姿が覗き見されている。そんなことは企業倫理があるから、問題ないと思い込むことでクライアントはゲームに打ち込むこともできるのです。が、ほんとうにそうなんでしょうか。

むろん今は、セキュリティ面でさまざまなガイドラインがあって、問題ないのですが、未来というゲーム空間ではどうなんでしょう。使用契約書の終わりのほうに小さく、このソフトを使って生じたことのあらゆる損害の責は免れますといった一項があるの、今も未来も見落とされる傾向にあるのではないですか。



未来人が神のふりをしてやってきている可能性あり

我々がよく聞いた話に、産業革命以降にプロペラ機に乗って、未開の原住民社会のもとに不時着したといったものがよくありました。そのとき、一命を取り留めたパイロットは、原住民たちの驚き怪しむ姿を目にします。しかし、敵意がないことを直ちに悟ります。つまり、原住民は、彼を神だと信じているわけでした。

そこでそれを知ったパイロットがとる行動は、もしそれが野心家なら、原住民を統一する神あるいは王になることを選ぶでしょう。こんな話、SF話にもありま したね。

同様に、もし未来からやってきた地球人が、このパイロットのような精神性なら、きっとおごそかな態度と強圧的発言で、原住民に従えと命令したことでしょう。言葉の壁? そんなもの必要ありません。身振り手振りでおおかたはわかるもの。どんな言葉のやりとりがあったかなどは、後付けの神話で済ませられま す。
どうにもわからんときは、持っていた銃で力の差をデモンストレーションすれば済むこと。それこそ、タイムマシンでタイムスクープハントしてくるべき話でしょうが、残念ながらタイムスクープハンターほどのモラリストでもないのがタイムマシン利用者なのです。

不時着のような不慮のハプニングでなくてもいいでしょう。彼らが自分たちのはるか祖先の時空に遡り、コードの改変を行う予定で赴いたとしても、その行為が 許容されるなら、したことでしょう。
おそらくそれは許容されるほどに、時空はパラレル的存在を容認しているのです。つまり、アカシックレコードの改変行動も含めて、ホログラムメモリにはプログラムされているとも言えるほど、許容度の大きい世界になっているということです。

神を名乗るほどに未来の人は進化するのか

まず、タイムマシンができれば、かなり有望でしょう。過去の人々は彼らよりはるかに遅れてますから、未来情報を予言として与えにきただけで神として扱われるようになります。そして、科学知識と技術の粋たる兵器の一例でもデモンストレーションすれば事足ります。

タイターはまじめな職務に忠実な人物。しかし、そんな人ばかりではないでしょう。たまたま寄港した土地で、女漁りついでに何かためになるものを授けて行くことも、十分ありうることです。そこでもしかしたら子供ができてしまったとしても、コードの改変がかなり自由なら、そこから先の未来が多少変わった形で伸 びていくことになるだけです。
それもあまたある中の、ひとつのパラレル世界であるという認識に落ち着くのです。

過去に行って、元通りの世界に戻ることのほうがタイムマシン操者には難しいということ。タイターも分岐点の座標情報をすべて記憶しておき、逐一チェックポ イントに戻るようにしないと、元には戻れないと言ってます。たとえ戻っても、近似的な元の未来がやっとであるとのこと。

未来人がタイムマシンやUFOを開発すれば、神にもなりうるといった話と、それに加えて、亜空間次元に未来人がテクノポリスを作り、そこから地球を監視す るといった、オンラインゲームサーバー的な展開をした未来人においてはどうなるでしょう。
彼らは直接自分たちの身を晒すことなく、何らかの制御目的の通信手段を使って、直接的にゲームの中に介入してくることも可能でしょう。今あるオンラインゲームを例に取れば、いっぱい見えてくるものがあります。

ヒトラーが”あいつ”と表現した、影のような存在とはいったい何なのでしょう。彼はそれによって、たくさんの未来ビジョンを見せられたようですが、このよ うな介入ではなかったでしょうか。

ヒトラーが見た神人支配の千年王国

参考
ヒトラー の予言~2039年の未来図について~

どうやら、それはAD3000年頃まで続くらしい。今からほぼ1000年後のことで、ヒトラーが予言し、タイターがやってきた時代の2036年あたりから、神人たちが立ち現れて、それまで地球上に起きたさまざまな問題を短期間のうちに解決していくといいます。

現時点までに地球上に起きたさまざまな問題の、いちばん今における難問題と思えるものが、放射能汚染でしょう。半減期が何万年という物質もあるというの に、それがもし神人の才覚や技術で無毒化できたならと思う人も多いでしょう。

しかし、それも簡単だろうなと思える事件もありました。

UFOが出現して瞬く間に地上の麦畑にクロップサークルが出来上がっていくさまを映像で見ると、まさにこの世の魔法のようであり、またこの世がバーチャル リアリティであるからこその造形の自在性とも解釈できるわけでした。

しかし、ヒトラーによれば、いったん旧タイプの人類は滅亡するとのこと。そして、そこからまったく能力のかけ離れた新しいタイプの神人が突然変異的に現れ、地球上の諸問題をまたたくまに解決し、まったくのロボットのようなおおかたの人類と分かれて存在するようになる、と。
そして、後者は前者の支配下に置かれ、真実とは遠いけれどもそれなり に幸福な生を享受するようになると。

突然変異で登場する神人。今盛んに避難設備を整えているデンバー空港の地下や全米の地下基地など。そして忍び寄る第三次大戦の足音。世界各地で起きる環境 汚染事故。

私は、それらを総合して、旧人類の滅亡と、新人類の勃興の過渡期に何が あったか、おおよそ推測がつきました。

放射能禍はたぶん地球全体を覆うことになるのです。その頃には第三次大戦の影響もあり、地上の核は多く使われており、世界の原子力発電所もすべてが溶融し てしまっていて、放射能も地上の人間を何千回殺してもいいほどに濃密化しているのです。
地球上には、それこそ炭素系の細胞構成でなる生き物はいなくなっ て、どこも砂漠化しているのでしょう。

だから、放射能に負けない身体になるのじゃ。うん、いいでしょう。クリスタルの身体になる? うん、いいでしよう。そう、すべて頓智が解決します。
クリスタルといっても、電脳設備 の強化クリスタルガラス中の存在として、人類は進化転身を遂げるのです。

その頃には、多くの人々は、地下要塞都市に置かれたスーパーコンピューターの作るサイバー空間にバーチャル世界を構え、そちらに生存環境を作って移り住ん でいるので す。

その世界はまるで、地球の美しい在りし日の姿です。それもそうでしょう。
アカシックレコードの過去部分から索引して、その電脳空間に引き込んでいるからです。過 去の一番いい頃のよすがが、電脳空間には再現されているのです。

そして不思議なことに、彼らはちゃんと意識をその中の特定の生き物(人間や有情)に投射して、あたかも現実と認識して生きているのです。

ヒトラーはそのビジョンを、未来人たる神人から授かったのですが、彼には、神人が感じ取っている環境情報しか渡されていません。だから、神人の超技術で地 球 は劇的に回復させられたと信じているのです。

神人たちのシステム開発の発想のヒントになるのが、ルシファーの教理であること
でしょ う。

あのアルバート・バイクが先の未来にシナリオとして掲げた、未来人類を啓蒙するための最高の教理がルシファーの教理であり、その頃にはどんな馬鹿げた宗教も駆逐されて消滅しているという、そのようにすごい真理の教えで す。
当宇宙理論の論文は、それを目標にしています。

秘教組織の方は遠慮なく質問してきてください。
未来人のためなら、もうひと働きしますよ。

地球環境は、過去のアカシックレコードの原型から組み立てられます。
ゲームソフトは、その素材をもとに、物語風な展開を加えていくものです。
そう、彼ら は、電脳空間の中に物語を作るか、過去のレコードをそのまま引き込んで、そこに居住することで、絶望的な地球環境から逃れるのです。

しかし、リアル空間側からは、放射能による劣化が促され、あるいは燃える素材に火がつき、それがほぼ千年の後に電脳設備全体をシステムダウンさせてしまう ことになるのです。それが千年王国の終了として預言された事件になります。

さて、まるでロボットのような人類とは。真相からかけ離れた仮の知識と価値観を与えられて暮らす家畜的ロボット人類とは。もしかしたら、今の人類もすでに そうな のでしょう。
タイムマシンを作った彼らにとっては、先の未来も、歴史的過去も、同一次元の話になるからです。

覇権主義的な彼らは、現在や未来はむろん、過去の人類をも対象にした人類教化を行なうはずです。その布石の例が、旧約聖書の預言者であったり、神話の付与 だったり、王制システムであったりします。先住民の預かり知らなかった知識であったのです。

古事記の神話の出だしを飾る部分に、当モデル概念の仕組みが知識として載せられています。それは当モデル概念が未来人神人のものとして消化されているからです。神人たちは、古代にも当概念の知識を持ち込んで、後世においてあっと言わせたいのです。当概念がルシファーの教理になることが予 見されたようなものです。

それはとりもなおさず、過去の時代から人々はロボット人として縛られ、永々と奴隷として働かされてきたことを意味するのです。神人たち の至った過去までが、植民地になっているということ。

それが証明されるのが、世界はホログラムかもしれないという、フェルミ研究所の実験が成功するときだと思います。
それは成功するでしょう。というより、成功させられるのです。彼らがプログラムした作り物の世界なので。

それがわかったとき、我々はすでに神人の支配下にあって、真実とは遠い仮の真実を真実と思い、生きている存在だったことになるのではないかと、喜ぶに喜べ ない実態に驚くことになるのです。

そして、少なくとも神人たちは、自分たちだけでも永遠の命でありたくて、タイムマシンを駆使して過去に幾度となくジャンプを繰り返していることでしょう。
コード改変と過去遡上の自由は許されるものの、生体的な影響がないわけはありません。もしかすると、グレータイプの宇宙人とは、放射能によっ て身体機能を 縮退させ た現実の神人の姿なのかもしれないことを付加しておきます。
(現代人の無責任のせいでそんな境遇にさせられたなら、非常に怨みに思いますわなあ)

しかも、いくら過去にジャンプして歴史を辿っても、それを自由にさせているシステムの寿命(実時間上の崩壊)は刻々と経っているわけですから、 時間旅行の途中でいつかは、突 然のシステムダウンに遭遇することになるのです。

それでも先の未来に展開しておかねばならないわけとは

もしかすると、神人たちも、外界の宇宙人の救済を待っているのかも知れません。
閉じ込められた電脳空間にいる意識たちを救い出して、何らかの媒体的身体を 用意してくれるような、高度科学の保持者を。
しかし、まだ見つかっていないのでしょう。
いたとしても、胸襟を開かねば、やってきたりしません。

そして、救済者にその気になってもらう努力もしなくてはなりません。

生命は、その形態をどのように変えてでも生存しようとします。
こんな形になった新生命でも、神は救済される。それだけが希望でしょうが、問題は救済しても害がないかどうかで量られるということ。それに尽きるのです。

神人たちは、過去レコードから、少なくとも二つの時代を繰り返し用いて いる

リアル地球時間と電脳内でのゲーム時間はまったく異なります。電脳内では、どんな時間でも作ることができます。というのも、レコードのプログラムコードの実行によって時間が刻まれているからで、速度が速いPC内では、どれほどの長期間をも短時間でこなすこともできます。一炊の夢も可能なのです。

この方法で、ロボット人類の有情たちは、何十何百回となく、輪廻を繰り返しています。そのサイクルの中で、突然変異的に新たな神人が出現する可能性がある こ とが、彼らの頼みでもあるのです。
もしかすると、突発性の新人によって、千年と限られた王国を拡張もしくは転進させてくれることも期待できるからです。
それは彼らにとっての救 世主にもなると予想されます。

アトランティスからの転生者が多いのは、この二つの時代で主として人々は回転しているからです。それをループしていると言い、ウロボロスの図柄で示さ れた、この世の成り立ちがそれを示しています。

それは特に開発工数のかからない簡便法なのですが、いわゆるプログラムにおけるループ状態を作っており、それが大きなスパンであろうとも、同じことの繰り 返しが、さらに高次元の監督者に観測されないはずがありません。

彼らは、その存在にま だ気づいていないのです。

通常、ループに陥ったと判断されるルーチンやプログラムは、バグがあるものと判断されて、監督者権限でアボート(流産)させられることになります。これが ユーザー提供されたソフトなら、クレームものであり、即刻訂正版が求められるところです。

今回もその類例どころか、ウイルスに冒されたものと捉えられており、その方面からしてもよくて千年止まりでの終結が予定されているとすれば。そのとき、神 人もロボット 人も、システムダウンの事態を迎えるのだとすれば。

ルシファーの教理は、神人だけに特有の時空を扱っているわけではなく、それやリアル宇宙なども小宇宙として含む、大宇宙、超大宇宙にいたるまで、すべてに適用される真理です。それを知らなかったというのでは、この教理を応用する資格が問われてしまいます。

たえず先の未来へと繋ぐ不断の真面目な努力だけが生き延びの鉄則なのであり、邪悪な為政者ばかり跋扈させて地球を破壊してもいいなどという愚かな発想で は、この世を継ぐ者の資格などありません。神人も、いつの間にか、おかしな終末観宗教信者に成り下がっているのです。
宗教信者と化す原因はただひとつ。自分では解決できない弱みを持っているからです。

この救世主は、そんな彼らに、いきさつを改める以外に存続の道はないと説きます。
そうでなければ、エグジットとして用意されているのは、解脱だけだと。
えっ? うれしい? それなら、オウムの信者と変わりませんがな。

第二の死に喜んで就かざるを得ぬほど、嫌われてしまいましたね。


ノストラダムス詩篇10巻74篇は神人千年王国登場の前夜について語る

>http://www.ne.jp/asahi/mm/asakura/nostra/proph_text/Centurie_10.htm

74 Au reuolu du grand nombre septiesme,
Apparoistra au temps ieux d’Hecatombe:
Non esloigne’ du grand aage milliesme,
Que les entrez sortiront de leur tombe.

重要な第七の数字の年が完結し
それは虐殺の試合の時に現われるだろう
大いなる至福千年の時代から遠からず
死者はみずからの墓から蘇るだろう
(山根和郎 訳)

解釈

グランドな七の数字とは、世界人口70億人達成のこと。
それが大虐殺開始の合図となる。
七の数がごく小さな七になるまで虐殺は続く。ヒトラーによれば、

のときすべては砂漠化しており、

類と呼べるものはいなくなっているとのこと。
それが西暦2040年頃の世界だ。

それから、神人が世界を治めるようになり、千年王国が開始される。
地下深くにある要塞に厳重な機密性のもとに置かれた超・スーパーコンピューター。
それが 来たる未来の万象を創造するマシンとなる。

ルシファーの教理が示す、万象バーチャルリアリティの理論を用い、神人はアカシックレコードにアクセスし、すでに過去となったはずの世界を、バーチャル空 間において蘇らせることに成功する。
さらに神人は千年の時を使って、過去の時空を広範囲にわたり開拓し、その範囲の歴史時間を司る神として君臨するようになるのである。

そして、この神は、歴史の過去から終結に至るまで (アルパからオメガまで)、実働部隊の秘教組織 (メーソン、イルミナティなどの秘密結社) を神の代理店として下界に配置し、監視の目を行き渡らせて、神の計画を忠実に実行し成就することを徹底させる。

このような秘教組織の上層部には、当然のことながら、神人たちが随時、タイムマシン(UFO)に乗って訪れ、位階最高の玉座に座ったりもしているのであ る。

そしてどうやら、地球だけでなく火星も使って、いっぽうがコケている間にもういっぽうを使うという、すごい荒業も用意されているらしい。しかし、いずれにしろ、資源を粗末に使い捨てるという性向ゆえに、局限された中にいつまでも隔離されてあるだろう。太陽系を出てはるか銀河の向うまで展開すればよい。それでも、システムを破壊するウイルスとしての扱いから脱することはできないことを肝に銘ずることである。
世はすべてコンピューターの中 で生起しているのだから。

そのような存在に遺しておきたい格言(精髄句)

それでもウイルスはシステム進化の起爆の摂理となりうる。
せいぜいウイルスとしての役割を楽しみ給え、存在よ。
行く先々で疎まれ恨まれ駆除の対象になるだろうが。

もし君が明確に役割に嫌になれば
大建て替えされて真の姿を顕したプレローマは最終ゴールとしてすぐそこにある。
威儀を正し身奇麗にして入ることだ。

 

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