神世政変の真実 更なる仮説(2)

推理を進めてみた結果

ここに語ることは個人的な推理仮説の域を出ないものであり、一般人のなんぴとも迂闊に信じたりするようなことのないよう願うものである。

目次見出しタイトルとリンク先記事

記紀のアマ テラスは則天武后を祀ったか

「大化」とは大陸勢力が謀った古代の革命?
世界が天地真逆なほどに頽廃した原因を神世の歴史に求める
ホツマとトンイとの共通点を挙げると王様と妃(候補)との制度の分限を超えた恋愛
ついに辿り着いたホツマ、記紀神話の原点
日本における天下布武の魁、天帝顔負けの称号諡号の数々
大革命となった「大化」の前の大革命とは
世界を常緑樹の理念にする上昇基調のターム
下降基調のタームは現代にまで及び
神話で形作られた世界を支援するのが神々
神々が憤る理由は神世史の改竄と低質化にある

参照記事

 

 


記紀のアマ テラスは則天武后を祀ったか

「大化」とは大陸勢力が謀った古代の革命?

2019年10月に、藤原不比等が『古事記』も編纂したとの情報が入りました。
2019年10月の時点までは、私は天武天皇の勅命どおりに古事記の神話の編纂はなされなかったと推理したのでした。その理由は、あるべきはずの古代大王 の常緑樹の理念がこの時点から一年生草本のそれになってしまったと思ったからです。
というのも、天武天皇は、中国の則天武后に対抗して国威を高めようとしたお方で、古事記の神話に書かれる途方もない未来知識を伝播した主体者が、理想をレ ベルダウンさせるはずがないと思ったからです。だから当初は天皇亡き後の約30年の間に不比等によって改稿されたに違いないと推理していました。
そのときのツイート記事です。
https://twitter.com/1st64503291/status/1187623240006389761

2020年になって、ツイッター上で知った水原詩織氏の探偵的推理力に感銘を受けて購入した同氏著の「もうひとりの明治天皇・箕作圭吾」を読み進めるうち、天武天皇と則天武后のあっと驚く関係の途方もなさが、神世の歴史を語る古事記の神話だけでなく、記紀の叩き台になったとみられる秀真伝の神話にも隠蔽 改竄の必要性を与えた原因になったに違いないというひとつの結論に達しました。

私はそれより10年前の2010年頃から、神世政変の発生現場について推理を巡らしてきて、ほぼ元伊勢地点で、ホツマのどの箇所あたりでそれが起きていて、 それが何事もなく繕われているに違いないという特定をしていたわけで、2014年には幾何学封印図形(カゴメの結界)という形で証拠が見つかり、2015年にはアストラル探訪 という別角度からもその地に被封印神が少なくとも三体の男神の存在が報告されていたということから、神世政変の推理されたストーリーには間違いがないと、私 の中ではすべて繋がっていたわけでした。

そこにさらに神世史改竄にストーリーの側からアイデアを与えていたのが則天武后の事績であった可能性です。水原氏説によってそれが決定的なものとしてもたらされたわけでした。

その推理過程をツイートの一連の流れで説明しています。
https://twitter.com/1st64503291/status/1232162204629098496


世界が天地真逆なほどに頽廃した原因を神世の歴史に求める

この世界が天地真逆なほどに退廃している原因について、以前から考えてみています。閑爺の一仮説のようなことになります が、太陽系に起きた異変がそもそもの原因ではないかと思うております。
コロナ騒動の渦中というのに傍迷惑な爺い話ではありますが、ゆとりあらばどうぞ。

引用ツイート望月弥右衛門@1st64503291 · 1月31日返信先: @1st64503291さん, @thick_wood104さんこれは異界的な仮説ですが、そもそもの始まりは科学力で秀でた宇宙人の侵略です。まず神世が彼らに乗っ取られました。宇 宙人は精神性が低質で3次元の地上界に関わるのみだったのですが、背後に霊系文明を模倣し乗っ取りたい余剰次元の存在がいて、それが軍事力を頼りとする宇 宙人を動かしました。

聖書にいう、神と牧童と羊の関係になります。牧童は羊や牛を厩舎に追い込むのに犬などを使い、群れを目的地に運びます。そ れが河馬流(カバール)により歴史を誘導されているように見える。羊ならば大人しくていいのですが、知能を持った人類はそう簡単にいきません。逆に、牧童たちは知能 ゲームをするようになったようです。

河馬流は組織を階層化し、上層部には宇宙人の入る座もありました。すべて上意下達の仕組みで、上位のことは下位からは隠蔽されました。
河馬流はシュメール、エジプト、バビロニアの神官層の流れで、王を補佐しながらこれを制御。宇宙人と連携したグローバルな組織ですから、すでに世界をくま なく知っていたでしょう。

古代からの人類の歴史は、彼らによって誘導されてきました。その行動原理が預言です。多く神話に篭められています。日本で は古事記、西洋では聖書ですね。読み解けばこの時代の歴史の大枠が掴めるようです。
また、こうも考えられます。預言等を容れたために、神世の本当の歴史が変更されているとも。

神世の歴史など誰がわかるのかよと思われるかもしれませんが、この酔狂な爺は今まで果敢に挑戦してきました。そこに 2017年のコーリーの宇宙開示情報によって、神世にもフィクションではない歴史があったはずと洞察できました。が、確たる証拠など提出できるわけではな く、仮説止まりの推理になります。

私は、ホツマツタエ(秀真伝)を見ていくうち、韓流ドラマの「トンイ」に似た筋書きであることに気付きました。そもそも、 なぜホツマなどを見るようになったかというと、大本教系の教祖が遺した文言を、第二の彼女から聞かされていて、彼女の叶えたい望みでもあったからで、私は 協力したく思ったのです。

それは、神世の昔に、国祖国常立神が暗殺され封印されて以後世界は邪悪にまみれるようになった。この状況を打開すれば世界 は良くなるという、途方もない志を聞いていたためです。彼女が言うには、天照神も同様の目に遭っているように思うとのこと。その方たちを封印の憂き目から お救いしたいと。

彼女には霊能資質があり、私ならやれるのではないかと思ったようで、私への励ましに似た霊言を与えてくれたもので、私もつ いその気になったように思います。私の本体は朱雀で、この病み疲れた世を火で浄化しに来ているとか、直上のハイアーセルフは梵天様だとかのおだてに乗った のかも知れません。

私には空想癖があり、こういう超越的な話は大好きでしたし、当時は仕事柄からして物思いにふける時間が十分にあったため、謎解きに挑むこ とを志して、まずはホツマに関心を寄せたのです。古事記の神話はすでに私なりに解読完了していたので、第二弾として相応しかろうと。しかし、原語からは さすがにしんどい。

数ある正史外文献の中でホツマに関心を持ったのは、1980年代でしたか、ふと偶然目にした須田麻紗子氏の小論文でした。(論説「伊勢神宮の内宮と外宮の関係」 須田麻紗子 日本神学刊行物) そこに私の故郷の近くで神世の一大事件のあった可能性が伝えられていたに違いないと思いました。その元になった文献がホツマだったわけです。こうしてホツマの内容を調べねばならないと思った次第。

霊能資質ある彼女とも喧嘩別れして数年経った頃、ネット上にホツマの口語訳版が出てくるようになり、それを元に解読することにしました。
国常立神(豊受神)の崩御のあたりに、隠された何かがあるはず。カナメになる地は丹後の宮津。(実際の場所は加佐郡大江町の元伊勢です) その仮宮に天照神を呼び寄せて、天成神道の奥義を授けて崩御され たため、その地に御陵があります。
後に天照神もその地に葬るよう遺勅されたため、そこに尊容は納められたとのこと。その地には元伊勢があり、両神の御陵にな る二つの神体山が存在しています。大本教系信者の彼女の話では、その地にこそ国祖神封印の手懸りはあるはずだとなります。

そこで、ホツマの粗捜しをすることになりました。筋書きに改竄があるのだろうと。国常立神は順当に亡くなられたのではない。封印の現場こそ、この地かも知れないと。不思議にも刑事コロンボがこれと目したホシにたえずくっつく如しで、UFOが頻繁に出てきた頃の地元民がいるとの便りを得て、UFO撮影家のM氏のお気に入り場所にもなったことから、私も同行して頻繁に現地入りしました。

現地をよく知る人物とも知り合い、たくさんの古代旧跡を案内してもらいました。この人物こそ、後に判明する、封印された天照神の依代さん(G氏)だったのです。だからでしょう、この人の協力で、とんとん拍子に謎解きが進みました。私はこのお役のために選任されて事に当たっていることを実感しています。

2014年には幾何学的な間接証拠も得られ、2015年にはネット情報により、天照神の御陵になる岩戸山(日室岳は表の名前で、岩戸山は地元民が呼び倣う名前だった)こそが封印場所そのものと判明。ヘミシンカーの方の 2013年のアストラル界探訪で、ここに封印された古代三神が絵で示されているのを見せてもらうという不思議がシンクロ的展開していくような按配になりまし た。

実際、近年まで国祖神級の神々は、そこに封印されていたと推測されます。今でも岩戸開けを待望する声があるのは本当と思いました。
ホツマに描かれるような順当な崩御ではない異変が有り得たはずなので、ホツマがすでに真伝の改竄になっていると見ました。ホツマの成立はいつ。記紀との関連はどうなるのか。

オシデ文字で書かれた文書は主流の表記ではなく暗号化されているかのようです。表からは意味不明にされているようです。しかし、ありがたいことに解読者たちがいて、それを拝見できる時代になったのです。その訳を見ると、韓流文官の手になるかのような手掛りがありました。天照神は幼名をウヒルギといい、朝鮮語の発音を偲ばせています。これは宇・日・貴で天空の日の貴神を 示しています。

また丸く白い卵のような異形で生誕したとのこと。まるでコーリーが言うスフィアビーイング(高次元球体存在)のような感もあります。また天照神は 十二人の妃を擁する男神で、まるで太陽を中心とした黄道十二宮を基にした感があり、カバラの占星学から来ているらしくあります。エジプト、カルデアの流れを汲むというユダヤ神秘思想カバラの痕跡でしょうか。とにかく渡来思想がホツマの底流にあることは見て取れました。

カバラ思想のキャリアーとしての民族と思想の運用主体者としての河馬流が古代からいたのでしょうか。いたからこそ、畿内に生命の木の図 象あるを事前に知っていて、倭の直接的な畿内大和侵攻もあったのかと見ます。途中の中国四国地方のほうがよほど温暖で肥沃ですのに。

さて私はなぜか、いつ頃かテレビを視聴していた時代にNHKで流れた韓流時代劇「トンイ」を興味深く見ていました。私のこうした情報収集は、後になって役に立つものがけっこうあって、不思議にもその場に事前に行き合わせて見てしまっていわけです。おやっ? ホツマの筋書きはトンイのドラマに似ているぞ、と気付いたのです。


ホツマとトンイとの共通点を挙げると王様と妃(候補)との制度の分限を超えた恋愛

特にホツマは12人の妃という、ええっ?と思うようなことが最初から書かれてあり、そこにまた中宮という特別職を設けてまで。ちょっと話のスピードがナウすぎる上、飛ばし過ぎになっているなと思えたようなことでした。
トンイの制作者によれば、李氏朝鮮王朝を参考にしたとのことでした。
朝鮮王朝という地上での話なら、それも有り得たで済ませますが、折り目正しい神世でそれはどうなんでしょう。しかも王であり民の指導者であるべき天照神がその則を超えているのですから、ありえないことと思いました。これでは祖父の豊受神(国常立神)の天成神道の王道教育が泣いてしまいませんか。

トンイでは、后に子が授からず、妃が世継ぎを争うようになり、政変を企てた妃のヒビン一派が捕えられ処刑されました。このときトンイのはからいで早生まれのヒビンの子が王位を継ぎ、トンイの子を後にするという美談になっているのですが、ホツマの場合は政変企図者の持子の子は世継ぎ資格剥奪の上、左遷されています。

持子早子は遠投先で刺客に追われ逃げ場を転々としてから非業の死を遂げ、怨みを募らせ九頭竜や八俣大蛇になったとされています。 共謀したスサノヲは死刑になる間際に助命。儒教思想によるのでしょう、王の子や弟であれば、男子を理由に助命されるわけです。ホツマの物語の由来が儒教精神に基づく中朝の伝承らしいことがほのかに分かります。ここでトンイに相当するのはホツマでは瀬織津姫です。

ところが、ホツマは何かの手抜かりでしょうか、政変企図したとされる持子早子の父親クラキネの慙愧の言葉を素直に書き残していました。政変は冤罪であり、結果、娘たちは非業の死を遂げ、早生まれの持子の子・穂日が世継ぎ候補第一だったものを資格剥奪されたと怒っています。持子早子があまりの怨みの末に妖怪大蛇に変じたといった話も、もし冤罪ならそれぐらいに思いもするでしょう。

そ のとき穂日につけられていたタナヒトという世継皇子の名から、”ヒト”を取り除き、瀬織津姫はその子・オシホミミになかったヒトをつけてオシヒトにしたと、策謀の凄まじさを語らしめています。そういえば、皇子でありながらオシホミミだけなぜか日(ヒ)という言葉が含まれていません。当初から世継ぎ候補から除外されていたのではないかと思えます。男子名はアメノホヒ、イクツヒコネ、クマノクスヒ、アマツヒコネと、「ヒ(日)」が含まれていて、また今でも同じですが天皇の本名を見ると、世継ぎ候補の皇太子にあたる人には「ヒト」が必須だったこともホツマからは伺えます。ホツマ由来の伝統なんですね。

だから、息子に「ヒト」を付けてくれない処遇に不満を持った瀬織津姫が政変を起こしたのではないかというのが拙推理です。それはまんまと成功した。事情に通じた宮中ではその行いが畏れ憚られたに違いなく、その後の口封じの過激さとセットになり、庶民に知られてはならないこととして、隠蔽されたのではないかと思うわけです。

真伝には史実がありのままに書かれていたのでしょうが、ホツマは秀真とも書かれるように、真実よりも優れた創作品という意味が見て取れます。そして、各段の表記「あや」とは、大和言葉を理解するものなら、綾、過ち、誤り、妖しいの語源であることから、フェイクであるとの意味を含みつつ、また古語の曲がったという意味を含む、マガ(禍)と同義に捉えられることでしょう。

また、瀬織津姫は別名・八十禍津日(ヤソマガツヒ)とも言われ、これならイザナギが黄泉の国で負って流した穢れそのものを表わす神名になります。また瀬織津姫は、ホツマ作者からすれば、さわやかな渓流(上流)を意味するとのことですが、イザナギが降り立った川の瀬は中津瀬ゆえに瀬下り津なのであり、また瀬を織った(折った)の意味するのは幾重にも折れた流れ、すなわち中下流域のことであり、淀みや滞りの多く発生する場所を表わします。

大和言葉を理解していれば、作者の説明に異議が出るはずなのです。(後の本居宣長は瀬織津姫の別名・八十禍津日を見て、イザナギが 黄泉の国で被った穢れそのものを表わす神ではないかと嘆息したとか) つまり制作当時から、ホツマ作者は虚構であることを知らしめたかったかと思われます。そして事態の隠蔽を完全にしてしまうのではなく、逆賊側に口荒っぽくはあるが真相を語らしめて、あとはこれを読む者が、どのように解読するかに任せることにしたのでしょう。

神世政変の真相を知る誰かによって、地上で編まれた神話に幾つものヒントが示されていたとしか言いようがありません。私はホツマは記紀に 先立つ、神話改変のための叩き台になった資料と見ました。日本統一の金字塔・律令時代を見据えての改変ですから仕方ないものはあります。そこには、神世に政変があったといった瑕疵が含まれてはならなかったのです。

日本は純粋に大元の神から王権神授された王族による統治でなくてはならなかった。神武天皇の伝説では飛騨の位山で両面宿儺(梵天?)が天皇位を授けたともいい、杓には位山のイチイの木が使われたとか。革命的な大改革を示す「大化」のときこそが、新規一転の体制造り、神話作りが企画された時期だったと解されます。

さて、なぜホツマとトンイに共通項が多いのか。トンイの制作者によれば、李氏朝鮮王朝史を参考にしたのことでした。しかし、李氏朝鮮といえば1392年に始まるとされ、645年の大化の改新とはかなりずれがあります。もしかすると作者は李氏の起こしたさらに旧い王朝伝承を参考にし ている可能性が考えられました。

ついに辿り着いたホツマ、記紀神話の原点

もしかすると、中国の李氏王朝の伝承? とまで推理を及ぼしていました。
そんなとき、すごい本に出会いました。”もう一人の「明治天皇」箕作奎吾(水原紫織著)”です。
明治時代前後の話だけかと思っていたのですが、その中に唐の則天武后の話が載っていました。武后の旦那さんは李治といい唐の第三代高宗だという。その後、李朝は何代か続きます。そして則天武后の業績を見て
私は驚き畏れを為しました。なんという恐ろしくも残虐な。西太后の過去世版かと思うほど。中国の王朝史というのは、たぶんどれもこれもこんなふうなのかと 思うほど。儒教が栄えたとはいえ、王族特に女系の確執のすさまじさ。
ふと見れば、トンイではなくホツマの場合に似ています。

ホツマでは瀬織津姫は許しと寛容を以てする心優しいお方として作者は形容しています。しかし、こと政変企図者の冤罪を圧し着せた持子早子には不寛容極まりなく、遠投先で刺客に襲わせるなどして脅かし、転々とした落ち延び先で非業の死を遂げさせたため、それぞれ怨みのあまり九頭竜、八岐大蛇といった妖怪大蛇と変じたとされていま す。

いっぽう、則天武后も庶民当たりがよく、政治手腕には優れたものがあったといいますが、策謀の末、本妻の王皇后には子がなくも陰謀に嵌め惨殺し、さらにウワバミ (蛇)との汚名の烙印を押し、劉氏の生んだ高宗の第一子を左遷、王皇后と対立していた蕭淑妃も惨殺し、梟の烙印を押しその子を左遷した上処刑してしまいます。他家の生んだ高宗の子は、みな地方に任官して中央には逆らわないことを余儀なくされています。
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天照の第一子の穂日も世継ぎ資格を剥奪され中津国に左遷、第三子のオシホミミが世継ぎとなりました。そうした類似点があることから、おそらくホツマの瀬織津姫の原型は則天武后ではないかと推断するのです。韓流ドラマのトンイは創作作品であり、やはり人気番組だけに、トンイを良識に則った主人公として描いています。

なぜ中国にいて政治的権力を持つ則天武后ともあろう方が、それより昔から蛮夷の地(九夷のひとつ)とされる魅力が乏しいはずの東海の小島に肩入れすることになったのか。それは武后が日本の為政者の親戚であったからというのが本当のように思えてきます。

先に紹介した水原著から推理されることはこうです。
藤原(中臣)鎌足の早い頃の子女が唐の高宗に嫁いで、後の則天武后になった。
(その際に、武家に養子縁組して入り、まずは太宗の後宮として入ったものか)

則天武后の息子が赤子のときに日本に届けられて、後の天武天皇になった。
(太宗の後宮に上がった頃にできた武后の初期の子とすると、高宗の子ではないかも知れない。だから秘匿されなくてはならなかったかも知れない。いわゆるご落胤だね)
武后の弟となる藤原不比等が天武天皇のバックに就いたことが推測される。

武后は、武の家系による日本の統治を目論み、息子の天武天皇にアドバイス。
倭から日本への国名変更を要請し、天武はそれに従った。

武后は新国家体制、律令制への刷新を強く天武に要請した。
そして夫の高宗に倣って天皇の名を語るよう要請。
そのために由緒ある神々に連なる王権神授を正統とする神話作りを要請。
その際、天皇の開祖神武から日本統一の英雄日本武尊、さらに本質的には初代になる天武の名に”武”を刻むようにさせた。

参考
https://cloudy.悠遊夢想.jp/2020/10/22/

このため、日本の正史の編纂が重要になり、蘇我氏滅亡のときに国書など重要書類が焼失したことで新規巻き直しが可能と判断 されたか、史類や伝承の改変が大胆になされ、叩き台のホツマなどを基に武后を最高神に据えて、神話を大きく改変するに至ったものかと思われる。それが記紀の前身たる秀真伝であったりして、それが叩き台にされて記紀に集約されたと。(蘇我氏を滅亡に追い込みわざと蝦夷に文書類を焼かせたのかも知れない。これは鎌足の策であったろう)

ホツマは真伝を基に改稿され、中央集権に都合よく新訂され、真伝よりも秀作としての意味づけから秀真伝となったとみられます。このとき神世の政変は未然に防がれ何事もなかったと、対外的に体裁よく見せる工夫も施された
実際は、武后がやった冤罪作りと他家の追い落とし、それを見せしめにして諸官を黙らせた恐怖手法が、作者をして瀬織津姫(武后)に忖度して描かせたと見ます。むろん監修者の天武の意向でもありましたから。

資料によると、則天武后は唐の高宗の皇后であったが、664年に実権を握り、690年に国号を周に改め、中国史上、唯一の女性の皇帝となる。科挙官僚の登用など見るべき施策も多いが、一方で醜聞も多く、評価は二面的である。705年の死に伴い、国号は唐に復されたが、次の中宗の時には皇后の韋后が政治を乱し、則天武后と併せて「武韋の禍」ともいわれる。と後世には禍の側の代表格のような評価がされています。

ホツマでは瀬織津姫の采配は天照を凌ぐほど如才なく描かれ、天照の存在感が薄いほどで、武后が病弱な高宗をリードした感のある権勢について物語るものかも知れません。(武后は655年、唐の高宗の皇后となったが、高宗が病弱であったことから、664年から政治の実権を握って「垂簾の政」(背後の簾(すだれ)の中から皇后が皇帝を操って行う政治)を行ったとされています。つまり傀儡政権だったというわけです)

これを見れば、瀬織津姫への評価は高まるに違いないと思われます。また、ホツマは記紀編纂時の叩き台に供されたと思われます。そのとき、則天武后を瀬織津姫に、高宗を天照神に、その他の配役を諸神に変換したものでしょう。記紀への変換がその次に行なわれ、則天武后がホツマを経由して天照大神へと変換されたものと思われます。

そこには、幾重にも恩義になった天武天皇の母・武后への報恩の志があり、武后の神格化となったことは紛れもないでしょう。武后に付けられた多彩な尊上名は伝わっており、そこから字を取って天照大神の神名が考案されたものと思われます。(以下太字)

則天武后、武則、武(本名)、后(自称)、聖母皇、(自称)、金輪聖神皇帝、則天聖皇帝、ほかたくさんの名を尊上もしくは自称されたよし。この方の出自に関して異説あり。水原詩織氏の探偵能力は泥沼を清水に変える如しで、私もこの方の卓越能力の恩恵は十二分にいただくことができました。

水原氏の慧眼推理は、
記紀やその他の古史古伝には載ってこない逸話として、能の演目のくだりを読み解いてそこに暗号が仕組まれていることを発見されたことによります。私もこのような暗号解きをえてして行ないます。よって、いっそう共感を持つわけですが、この方が調べたによると、能の「海人」という演目に、「藤原不比等の女きょうだいは唐の第三代皇帝高宗の皇后になった。その父上の氏寺の興福寺に3つの宝が贈られた。しかし、そのうちの2つしか届かず1つは龍神に取られてしまった」というくだりがあります。2つの宝では宝宝となり、中国語で赤ちゃんのことを意味します。つまり彼女の産んだ赤子が日本に送り返されたと解せるとのことです。能の「海人」では龍に取られた玉の取り戻しのほうに力が置かれていますが、むしろ見逃されている話のほうにこそ発見があるということを如実にされています。

則天武后が鎌足の娘とすると、唐の高宗のもとに嫁がせるために、”武”家に養子縁組させて王室に送り込んだことになるでしょう。(あるいは父の武士彠(ぶしかく)が鎌足だったという説もありましょう)おそらく高宗に嫁ぐ前に太宗の後宮にいったん入ったこともあり、どうもそのときでしょうね。彼女には男の赤子ができており、高宗への手前、何とかしなくてはならず、男子ゆえたいせつな宝として日本に送り返すことになった。それが後の天武天皇だったということになるかも知れません。つまり則天武后は鎌足の歴史上知られざる長女で、次が長男の不比等だったということになるでしょう。このため叔父の不比等が天武天皇のバックに着いて、大鉈を振るったことになるかと思われます。

鎌足は中国もしくは朝鮮半島からの渡来人で、それが日本の新しい歴史の始まりを作ったような感じになるでしょう。それ以後の歴史こそ鮮明ですが、それ以前の歴史は蘇我蝦夷が書庫を焼いて天皇記、国記などの文献の焼失に鑑み、捏造されたものかも知れないと論議されているわけです。

中国の史書・新唐書において、倭から日本に国名を変えることが則天武后の要請だったことが書かれ、また天皇を名乗ることの薦めもあったようで、天武天皇がそれに応じて初めて天皇を名乗ったことが明らかなようです。神武天皇からの歴帝の記載はすべて天武天皇の監修で記紀から行なわれていて、それまでは大王という称号でした。

この天皇という称号は、夫の高宗が中国史上初めて自称したもので、武后が夫の死後、天皇大帝という称号を贈りました。それを日本の大王にも薦めるといったことが、ふつう考えられるでしょうか。しかも日本列島は海を隔てた蛮夷の地という認識の中国だったわけです。そこに、ただならぬ関係があったことが推理されるべきでしょう。天武天皇が唐の律令制を積極的に取り入れ、日本を世界にも誇れる国家体制にして臨む決意を持っていたのも、バックに母・則天武后の入れ知恵と支援があったればこそと思われます。

天武天皇は、この母への恩義から、記紀における最高主神・天照大神に母の事績を重ね合わせて神話を編んだものと思われます。天照大神の四字は、先に述べた武后のあらゆる名前からの抜粋になっている可能性があります。

天武天皇も神話に登場しているとすれば日子ホホデミか

一説には、天武天皇は白村江の戦いで敗れ唐の捕虜になって8年後に帰された筑紫君薩野馬ではないかというものがありますが、私はそれもまた面白いかと思っております。その場合は武后のもとから赤子で贈られたのではなく、唐で英才教育を受け、鎌足、不比等との連携で王権確立後に日本統治に直ちに取り掛かれるよう計画を授けられた上で、捕虜に混じって帰されたのではないかと。このとき47艘の船で2000人もが来ており、武后の精兵もかなりいて後の壬申の乱で功を収めたかと思われます。

短期間に一代で日本の礎を築いてしまう大胆施策の数々は周到な事前準備なしには語れません。おそらくはそれまでに中国にあった東方洋上の神仙伝説の根拠になる土地についての研究はなされていて、武后の目の黒いうちに配下に置いてしまおうという積極策が採られたのではなかったでしょうか。神仙をも支配下にするためには道教の最高神級の称号すらもことごとく得ておこうということだったかも知れません。そして息子である天武をその土地の番人の初代になるように図った。武后にとっては東方洋上の島は、それまでの林立した国々が蛮族の土地と看做していたものではなく、神仙と捉えていたと思われます。この島の価値が分かった初めての女帝だったかも知れません。

⇒ 神仙境、扶桑伝説 https://twitter.com/1st64503291/status/1384393787867230209

母の武后が神話の最高主神であるときに、天武もまた神話上に登場しないとは思えません。サチヤマ転じて山幸(日子ホホデミ)がそれで海神と婚姻を結び宝の玉を得て帰るという筋は能の海女が面向不背の玉を龍から奪い返す筋に近いものがあり、大海人皇子の名とともに謎掛け暗号になっている感があります。

また、サチヤマは神話の山幸の転とすればニニギの末っ子の日子ホホデミとなり、龍宮に出向いて海神の娘から土産物、このときは潮満つ潮干るの玉をいだいて帰ったわけですが、龍宮の乙姫から玉手箱をもらって帰った浦の嶋子(浦島太郎)という古代の環太平洋の英雄伝説とも結びつきます。この伝説は、ニギハヤヒを初代とする籠神社の四代目倭宿祢が亀の背に乗り鶴の羽ばたきを見せながら神武水軍を瀬戸内海で道案内したという英雄伝として受け継がれているわけです。倭宿祢は同神社の境内に黄金の玉を掌に載せ亀の背に乗る姿で銅像が造られています。

また、能の「海人」の龍に盗られた面向不背の玉が海女の手によって取り戻されて朝廷(不比等の子良房)に届けられたという話の面向不背とは、お前とお前の子孫(不比等、良房、天武天皇に繋がる一族)の行く末を武后がいつまでも見守っているという意味とともに、監視カメラのようにしつこく跡を追っているぞ、という意味にもとれます。つまり武后・天照大神の守護は天皇家の末代まで及んでいるという強力な呪文ともなっているのです。
つまり、日本を本当に救う神がいるなら、武后・天照大神ということになるかも知れません。天皇家の安泰のために神世から守護してやろうというのです。武后ならば持てる力の総力挙げて、子孫の存続と繁栄を支援するかと思われます。だから、まだ日本はどうなるか分かりませんよ。


日本における天下布武の魁、天帝顔負けの称号諡号の数々

また、武后の願いは日本の間接統治、実家の”武”家による天下布武だったことが偲ばれます。(養子縁組かも知れぬとはいえ)則天武后の父は武士彠(ぶしかく)といい、元々は材木商で富を築き、唐の高祖の戦に参加して功績を揚げたため、利州都督(四川省あたりの知事)になったそうです。武士彠は楊夫人(栄国夫人)を後妻とし三女をもうけ長女は賀蘭越石の夫人、韓国夫人に封ぜられ次女の武照は高宗の皇后、女帝-則天武后、三女は郭孝慎の夫人、武士彠の兄に武士棱・武士譲・武士逸、兄の子として武惟良、武懐亮、武懐運らがいたとのこと。

”武”姓は名誉ある姓として、則天武后が縁戚ある者に、”武”の字を遺すことを薦めたかと思われます。もし天武天皇が実の息子なら、倭を治めるにあたって、もっと語彙として誉れある”日本”に変え、自身の尊称を夫の高宗もそうだったのだから、”天皇”にしなさい、そして名前に”武”の文字を入れて母の実家の家名を高めなさいと薦めたのではなかったでしょうか。

天武天皇は記紀編纂時に、初代大王からして神武とし、日本統一の英雄を日本武尊とし、自らは天与の天武とし、その後、文武、聖武と、武を刻ませ、後の武士の世はそのまま武士彠の子孫たる”武”家のもののふ(兵)というように、則天武后の七光りが未来に渡って光り輝いているような次第になっているわけです。
東大寺の大仏も武后の似顔であるとされるほどで、天武天皇が恩義ある母・武后を記紀神話の最高主神・天照大神としたとしても、なんらおかしくはないでしょう。そして中津巻から神武天皇に始まると宣言したのです。これぞ、”武”家による天下布武というものではなかったでしょうか。

また自らを尊大にする方策を繰り返し取っています。弥勒菩薩を自称したとされ、忖度して尊上させる称号も、天帝さえもびっくりされるほどかと。(皇后時代に天后と自称し、武照を自称、聖母神皇と讃えられ、聖神皇帝と讃えられ、705年には則天大聖皇帝と讃えられたのが最後 その他とてもたくさんの称号のすべてが天照大神の四文字になりえています)

本名 武照
674年、高宗が天皇を自称、武照が天后を自称
(天武在位は673~686、この間に天武天皇を自称)
688聖母神皇(尊上)
690聖神皇帝(同)
693金輪聖神皇帝(同)
694越古金輪聖神皇帝(同)
695慈氏越古金輪聖神皇帝(同)
695天冊金輪聖神皇帝(同)
705則天大聖皇帝(同)
弥勒菩薩を自称
字選びで天照大神が良しとされたもよう

また故人を偲ぶ子孫からの諡号がまたすごい。

遺詔には「帝号を取り去り則天大聖皇后と称すべし」とあったといわれる。唐王朝での諡号はその後も変遷を経る。
唐隆元年(710年)、中宗、天后と改める。
景雲元年(710年)、睿宗、大聖天后と改める。
延和元年(712年)、睿宗、天后聖帝と改める。
開元4年(716年)、玄宗、則天皇后と改める。
天宝8年(749年)、玄宗、則天順聖皇后の諡を追加する。

Wikiによれば、武后は改称・改変好きとのこと。

称号や尊号、都市の名前など、人や事物に対して、伝統的に使用されてきた呼称に改変を加えることを非常に好んだとされる。顕慶4年(660年)[要出典]には皇帝と皇后をそれぞれ天皇と天后とした。この改称の狙いは、天皇と天后という相互に比肩する字義を持つ組み合わせへと尊号を改めさせることで「皇后が国政に介入しているに過ぎない状況」を「天后が正統かつ正当な支配権を行使している状況」へと変貌させ、現状における自己の政治への介入状況を追認させることにあったと言われる。[要出典]地名の改称の例は洛陽を神都とした例や、自らの出身県である文水県を武興県と改めた例などであり、武則天の思想を反映するとともに、皇帝である自身の権威を高めることや、あまり家格の高くなかった生家の武氏の権威を高めることなどを意図したものが見られる。

天武天皇が則天武后の息子なら、母の威徳と実績と有益なアドバイスの数々の恩義に応えて、世界最高神としての天照大神になぞらえるに躊躇はなかったでしょう。まずは、神世の物語を制作させ、それがホツマとして成った。それを叩き台にして記紀の神話から中津巻の英雄伝説までを作ったものと思われます。

作家の手になるホツマが届けられたのは不比等と天武天皇。それを基に記紀が編纂されたとき、枝葉の部分は刈り払われ、古事記の神話に至っては、中東由来の科学知識と預言が主体的に織り込まれ、中国を凌ぐほどの未来を先取りした知識の質となっています。ホツマには天照神の十二后にもあるようにカバラの占星学概念も認められますが、古事記になったときには、中東由来の痕跡を遺さぬように削られたのでしょう。

その一方で、日本古来の神々の試行錯誤や失敗する姿を描き、中国古来の神々との優劣をつけた感もあります。日本独自の主張は、 おそらく中東由来の科学知識、未来知識にあったのでしょう。それは天津神である宇宙の神(権化としての宇宙人やUFO)への礼讃とこれを信仰の対象にしてきた中東文化やユダヤ教文化へと繋がります。

こうして成立した神話は、それまであったどんな叩き台となる神話をも無用のものとし、むしろ隠滅の対象とされたことでしょう。このため、諸家が持っていた史書は神話を主体に隠されねばならなくなり、近年に至って思わぬところ、農家の天井裏などから見つかるようになったとみられます。

前著の通り、則天武后が天照大神になったのであり、ホツマでは瀬織津姫であったのです。いっぽう男神天照は高宗のように精彩がなく、記紀ではその先代のイザナギ、イザナミのときの女先立つはよくないという訓戒があるにもかかわらず、女神へと変更されました。考慮に値しなかったのでしょうか。いいえ、そんなことはありません。もしもこの訓戒が記紀編纂の終わりかけに挿入的に付け加えられたとすれば・・・歴史は後々まで見ていかねば意味が掴めるものではありません。

武后の事績が秀真伝さらには記紀へと採り入れられたことを物語る逸話

記紀に到るまでに秀真伝が武后の事績を多分に取り入れていて、記紀編纂の叩き台となったとみられるため、ここを詳述したく思う。
表は登場人物の事績の対照である。
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ホツマでは瀬織津姫は天照神と同等に語られるが、その政治的才腕と民への温情溢れる様はこの物語の主役であることを天照神よりも明確にするほどと思われる。
ホツマ作者のする物語の原案になった則天武后への賞賛は、天武天皇への忖度として表れたものであり、主役の瀬織津姫に変換されていると見る。
天照神を同等にして話を進めているのは、武后の夫・高宗抜きには武后の輝きもないからであろう。
高宗は病弱だったことから、武后の強引さに押し切られたとみられ、後に垂簾政治と言われたように傀儡状態にあったのだろう。
傀儡とはそれが元の本人でなくとも、言うことを聞く替え玉であってもよい。

高宗の正妻・王皇后は子に恵まれず、トンイの場合の王妃に似ており王妃はトンイに好意し取り立てようとしたが、そこは王皇后が武照(後の武后)を取り立てて後宮入りさせたのに似る。
しかし、トンイと違い、武后は王皇后を我が子殺しの嫌疑をかけ拷問の末惨殺処刑。
その上で更に王の姓を蟒(大蛇)に替えた。
また王皇后と競い合った蕭淑妃も共謀したとの嫌疑をかけ惨殺処刑。
その上で蕭の姓を梟に替えた。
このときの王皇后に相当するのがホツマでは持子姫であり、蕭淑妃に相当するのは妹の早子姫である。
瀬織津姫はこの両者を天照神への政変を企てたとの嫌疑をかけ、両者共に遠投の末、非業の最期を遂げさせた。
持子姫早子姫の両者は怨みのあまりそれぞれ九頭竜と八岐大蛇に変じて地下に封じられたとされる。
これは武后が採った、姓のおぞましい生き物への挿げ替え話に似る。

また持子早子と不義密通の上共謀し、瀬織津姫の妹・ハナコを殺害したとしてスサノヲが死罪に処せられるところ、直前に助命されている。
政変企図と親族殺害がスサノヲも巻き込んでホツマの一大事件になっているが、武后の子の殺害事件を元にしたと思われる。
だが、実際は王蕭両后を陥れるために、武后自ら我が子を殺したとする説が有力だ。
武后→王皇后 →蟒・・九頭竜 ← 持子姫←瀬織津姫
武后→蕭淑妃 →梟・・八岐大蛇← 早子姫←瀬織津姫
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我が子殺しが武后の自作自演なら、瀬織津姫の妹・ハナコ殺しもそうなるかも知れない。
(日月神はスサノヲに罪を着せて根の国に追放したことが岩戸閉めの一つになっていると言っている)
また政変企図は瀬織津姫側にあって、持子早子の変とは逆に政変が成功したために、衆目を抑えて何事もなく取り繕ったと解される。
武后の権勢をほしいままにしたがる態度は、我が子の死さえもライバル蹴落としの策と疑わせる下地になっていると思われる。

実際に武后の関係者はどんなふうに見ていたのだろう>
きっと王、蕭両皇后への見せしめ的処刑に、おそらくは高宗も、また他家の王子たちも畏れおののいていたのではあるまいか>

高宗は武后の言いなりになるようになり、王子たちもびくびくしていたことだろう。
高宗の長男李忠は王位後継の皇太子だったが、武后が皇后になるとただちに降格させられ左遷されている。そして中央に対する敵意なしを装うためか女装に明け暮れる日々を送ったが、結局は若くして死を賜ることになった。
他家の王子たちは地方長官以上の位を望まず、武后の逆鱗に触れないよう大人しくしたが追放や左遷の憂き目に遭った。
武后の子であっても、高宗の五男、六男は武后と不和になり殺害されている。
七男にして王(第四代中宗)になるも武后に逆らったため短期政権だった。
八男は第五代睿宗になるも、武后の傀儡で後に廃帝され、武后が自らの国・武周を建てて中国初の女帝となる。

我が子たちすらもこの有様に、最初の我が子殺しも武后の仕業と誰しも思うようになっていただろう。
しかしその噂は権勢の強さによりすべて封じられたのだろう。

つまり、我が子といえども誰一人としてまともに帝位を継ぐことのできた者はいないのだ。
これが記紀の天孫降臨において、息子のオシホミミは天降せずにその子のニニギノミコトが地上に下ろされたという筋書きにされているとみられる。
天降したニニギに相当するのは唐の睿宗の息子の玄宗であり、武后亡き後だったため、武后の横暴が利かず、中宗の皇后の韋后が武后にあやかろうと娘の安楽公主とともに権力を握り乱脈さを醸したが、玄宗により滅ぼされている。
後に、武后と韋后の権勢欲が招いた悪政時代として武韋の禍(710年に終了)と呼ばれることになる。

ホツマには武韋の禍らしい叙述はないが、712年と720年の記紀成立のときには衆人の評価は定まっていたから、イザナギ、イザナミの国生み神話において、女先立ち言えるはふさわず、と女人の采配をけん制する叙述を編纂終了間際に挿入的に置いているのである。つまり、唐の内情をたえず調べながら、記紀の編纂が進められていたことになるだろう。
しかし、女神天照大神は別格で、そのような地上的騒乱によって天位が乱されるようなことはなかった。

さて、高宗の子息や子女においてはどうだったか。
ホツマでは、天照神の長男は天の穂日で、政変を働いた持子姫の子であるゆえに、皇太子を降格させられ
国津神のもとに左遷された → 最初の子・李忠(母は劉宮人)の顛末に似る。
ホツマでは瀬織津姫の子オシホミミは天照神の三男だが、記紀への変換に伴い長男になり、次男が穂日とされたゆえに皇位が継げず地方に着任したことになっている → オシホミミは武后の子・中宗、睿宗に相当か。

蕭淑妃の二子女、李下玉と高安公主の姉妹は、武后によって婚姻できぬように王城に幽閉された。
持子姫の妹・早子姫の子女が宗像の三姉妹で、母親の政変企図の咎を受けて、母たちと行動を共にするよう瀬織津姫に命じられ、各地を転々とした → 蕭淑妃の二女子に相当か。(婚姻を禁じられ一生孤独だった)

宗像三姉妹は勧請された先で、必ずといっていいほど岬や離れ小島に祀られているが、武后が蕭淑妃の二女子にした事績が原因をなしているのかも知れない。
気の毒なことだが、武后の事績を日本神話の叩き台に据えたことにより、旧来の神々が被る不利益がいかほどのものか推し量ることができる気がする。

また武后の最初の女子・安定思公主は生まれて間もなく死んだ子で、毒殺の嫌疑が王皇后、蕭淑妃にかけられたわけである。
次女・太平公主(李令月)は武后に容姿や性格が似ていたため可愛がられたという。
令和の元号がもとにしたのは万葉集の令月を歌い込んだ歌となっているが、巷では後漢の張衡の帰田賦に令月のことが載り、それが先だろうといった意見が見られた。
しかし、令月を言うなら、太平公主(李令月)のほうが順当ではないだろうか。その美しさは母・武后の若い頃そのままに
史書の伝えるところによれば、少女期の武照は漆黒の髪、特徴的な切れ長で大きな目、雪のような肌、桃色の唇、薔薇色の頬、大きな胸、見る者を魅了する媚笑、そして聡明な頭脳を備えていたとのこと。

そして何よりも、天上天下の総帥は武后・天照大神であり大日如来でもあるお方である。
時代もクライマックス的フィナーレを迎えようとする現代、武后が太平公主を伴って我が娘の花道を飾ろうとしてもおかしくはない。
未だに天界にあって、世界をみそなわしているのだから。私はその活在を彼女の脅しによってまざまざと経験している。
ここは第三の説を推薦したいが如何だろうか。
さて最近のことだが、武后・天照大神の権化と思しき方が、私をスカウトに来られたものか
そのときのイラストには武后の14歳での太宗の後宮入りした頃か、もしくは似ていたという娘の李令月の姿を髣髴とさせるものがあった。
https://x.com/maria777mayu/status/1587617945634471936
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まさに史書の伝承を物語る事実かと思われる。
詩の内容も武后・天照大神そのもののことと思わざるを得なかった。

❤️姫野 真由美❤️マリア・月の女神🌹豊国野神・天照大御神・瀬織津姫@maria777mayu
天から聞こえし 神の声
令和日本の おうさかで
巫女覚醒したる 宝玉の
我が遣わしたる 愛我が子
先に行くその 道中に
安全に 来るがよい
二千年 遙かなるお国の守り
我が一族の ゆかりの地
我は待っている その社で

我が名を 伝えよう
我が名は 天照大御神
午前10:29 · 2022年11月2日

また前座のイラストの複数の火の鳥・鳳の絵は、武后が皇后として在位した頃の最高の被り物・鳳冠を物語るものかと思われる。すばらしい絵であった。

未だに天界にあって、世界をみそなわしているわけである。
1997年の神戸事件で、私はその活在を彼女の脅しによってまざまざと経験した。
今回はスカウトだった。
武后・天照大神からの硬軟使い分けての懐柔策と受け止めたいが如何だろう。
令和のもととなった令月は、第三の説(李令月)を推すのが妥当と思われるが如何だろうか。

歴史の影の演出家・カバール(DS)の観点から見たら

トンデモ推理になりますが、どんな重大な歴史転換点の背後にも例のカバールが介在しました。それは黎明期の日本とて例外ではなかったのです。まず鎌足や不比等はカバールに違いありません。彼らは遅滞した人類の営みには革命を以て乱し、新たな動きを促進して歴史をシナリオ通りに誘導するのです。「大化の改新」は古代のカバールが起こした第何波かめの革命だったと思われます。

「大化」よりも前には大陸から渡来した何波もの動きがあり、何度も革命がこの日本列島で起きているのです。カバールには少なくともこの時代の黎明期から6000年の歴史があります。もっと言うなら、宇宙人が植民地にして人類を創造した数万年前から彼らは発祥したと思われます。最初は神(宇宙人)と人間との間にできたネフィリムという半神半人がカバールの走りです。その後、人類の遺伝子と宇宙人の遺伝子の類似が多いことから、人類の中から抜擢して神の支配の便宜を図るための代理店組織が生まれた、それが人類史を陰から操ったカバールです。

カバールは直上の宇宙人の知識支援を得ていて、そこからの指令もあって、かなり大胆かつグローバルな動きをすることができたとみられます。大化に始まる律令制への移行が明治の革命のひとつ前とするなら、大化のひとつ前の革命には何があったか、何が目論まれたのかがおぼろげながら見えてきます。

大革命となった「大化」の前の大革命とは

北九州の古代史を研究し地元の探索成果と併せて、天武天皇以前の皇室系の歴史は北九州だけで十分に説明できるとして研究に取り組まれている福永晋三先生という方がおられます。この先生の眼中には天武朝以前に畿内における皇室系の歴史はありません。ところがなぜか一般には、畿内での歴史がメジャーな古代史研究のテーマになっていて、では北九州に残る遺跡群はどういう意味なのか、古文献の観点からでも整合する説明ができるのに、と問いかけが行なわれていても、中央の古代史研究の重鎮方は、考えがまったく折り合わないため、無視してかかる以外ない状態のようです。

この畿内説と九州説の間にも溝ができていて、お互いが無視し合っているという情況があるため、福永先生のフォロワーの篤志家が、我々の歴史研究の場で熱心に披露されたので、これは歴史の隠された重要部分と思われるため、また私なりの研究も完成させねばならないことから、推理を展開することにしました。大胆な樹上からの観点の北九州と畿内の同時並行的歴史の謎についてといった感じでですが、おそらくこの仮説以外に、満足できる解答は誰も施せないと思われます。しかし実に突拍子もない感があるのは、間にカバールという黒子を配置しているからでありましょう。

それは「大化」の前の革命に遡っての説明になります。ひとつ前の革命としてもいいほどの大きな変化の歴史です。

ツイッター内歴史研究会の中での私の講義の抜粋

さて、私は今からツヌガアラヒコさんというお題をいただき、私が西日本、畿内に発見した精巧な幾何学図形がカバラによるもので、ある特別な古代人の理想と実現目標がカバラ祭祀による恒久的な平和と安定の理想郷実現にあったという説を論じてみようと思います。

この説の効果として、北九州邪馬台国説、畿内説の双方の並行的な歴史展開の矛盾を丸く治めることができると見込んでいます。ただし、この論証には今まで解かれたことのないユダヤ教の秘儀などの一般にオカルトと看做される事柄を大いに用いなくてはならないため、九州説、畿内説のどちらの学者さんからも見向きされることはないと確信して事に当たります。もしそのような独占的な両分野に誤って殴り込みをかけたりしたら、捻じ伏せられて外に放り出され、玄関に塩を撒かれること請け合いです。それゆえ、行けー、やれーといった声援はなさらないように願います。

それでも、このアイデアなしでは、統合は不可能と思いますから、九州様も畿内様も意地を張られるなら、いつまでも平行状態であり続けてくださってけっこうです。
私はこの両者の葛藤を鷹羽の神や天狗衆とともに雲上から鳥瞰し観戦いたす所存です。鷹羽団扇をひらひらさせながら。

ツヌガアラヒコ=ツヌガアラシト≒ツノガアラヒト=ツノガアルヒト(角がある人)
新羅の最高官(角干)であり日(嗣)の御子(アラシト)である者
大伽耶の王子
(アラヒト神とはアラシトから来てる?)

新羅の高官であり大伽耶の王族であったというこの人物とは、明らかに角に関係があるようです。それがあるのは頭、二本角と思ったのは後世の人で、兜の角に変えてしまいました。しかし、これは真ん中の一本角だけであったことでしょう。大和言葉はそれだけで意味を十分に伝えられるように設計されているものと思われます。ツヌガとなってるけど、これはツノガでしょう。意味が分かるようにして発音すべき場面なのです。ツヌでは今の時代に分かる人はいません。(他の例としては、オミヅノ(オミヅヌ)、フノヅノ(フヌヅヌ)。角の生えた臣、怒り角の男といった意味で、国来、国来と土地を手繰り寄せることに従事した氏族とか威勢のいい土建屋って感じになるでしょう。)

そして、角があるとはどういうことなのか、意味が考えられたことがないようで、角の伝承が誤って二本なくてはならないと、兜を被らせてしまったのが後世だったというわけです。(四天王寺ワッソ)  渡来民族があったことまでは論じても、深いところが探られていないから意味が通じないのではないか。日本の古代史学は足を伸ばしても中朝どまりなのでしょうか。

魏志倭人伝と誰もが言う古史も、本当は魏誌東夷伝倭人の条という、東の蛮族の一国にすぎない箇所との事で、卑弥呼も中国官吏がわざと卑屈な当て字をしているのに、後生大事に守っておられる歴史学界とはなんなのでしょうね。せめて、これは日の御子か日の巫女のことと注釈されててもおかしくないと思うのです。グローバルな視点が、まあ九州はそこに特化した発見の真最中なのでこれでいいわけですが、本土側にこの視点が欠如していて、まるで日本の歴史は誰か外国人に頭を抑えつけられてるような感じがあるのです。
今のテレビと一緒。外国の報道の体のいいとこだけ報道のため、本当のことが何もわからないのに似ている気がします。

北九州が実歴史においてオープンなのに対し、畿内は祭祀形態にまつわることですから、天皇や豪族の長、神官など知る者だけの秘密にされたことでしょう。それもユダヤ教の秘教です。だから、祭祀官の旅のルートのこともあえてぼかしてあるかも知れません。

崇神天皇の頃のツヌガアラシトが探し物目当てのさすらいの伝承なのに対し、垂仁天皇の頃のアメノヒボコは時の天皇に八種の玉神宝を奉じた、このため天皇は渡来人にしては破格の所領地を与えたことのようです。この八種の神宝は先のニギハヤヒのもたらした十種神宝と重なり合うものがあり、どうやら時の天皇はその故事を知るか、もしくは同系統の祭祀を担っていたお方であったため、おそらくその形見の品を見て、これは同族でしかも王族と見たのではなかったでしょうか。
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世界を常緑樹の理念にする上昇基調のターム

同系統の祭祀とは、常緑樹を生命の木に見立てて、10のセフィラのそれぞれに種々の神宝(十種の神宝)を取り掛けて祭儀するものと、同じく常緑樹を三部分、上中下に別け三種の神器を取り掛けて祭儀するもののことと考えます。この二つの祭祀は相似であり、前者がニギハヤヒ、物部の固有の祭祀とされ、後者が天皇家の祭祀とされているようですが、どちらも常緑樹(エバーグリーン)という古代世界共通の理想を祭祀によって体現しようとしたものと考えられます。天皇家には三種の神器のオリジナルがあったかも知れませんが、豪族たちは同じ祭祀で忠誠すべく、各所それぞれに三種の神器を用意していたものと見られます。

「ここに女人あり、カムカシヒメといふ。・・天皇の使者至るとききて、即ちシズ山の榊抜じとりて、上枝にヤ ツカノ剣を掛け、中枝にはヤタノ鏡を掛け、下枝にはヤサカニを掛け、またシラハタを船舳とにたて・・」(景行紀十二年)
平成6年2月に長野県の小海町の農家(松原諏訪神社の神官の末裔)で見 つかった三寅剣(みとらのつるぎ)は、同家に既にあった五鈷鈴、八稜鏡と共にワンセットで木の祭祀に使われたものと解せる。
五~七世紀頃、大和に仕える豪族はこの種の祭祀を取り入れることによっ て、大王への帰順の意を表したのであろう。神官は中央から派遣され、地方豪族と祭事の部分で結びつき、大王の行幸の折には、歳時に合わせた組合せで儀式を執り行ったものであろう。

しかしこれは、北九州の限られた地域ゆえにこのように略式になった可能性があります。畿内では東西南北がきれいに大きく取れて、それをキャンバスにして生命の木が描けたのですが、北九州では地形の整合ができなかったかも知れません。中央柱も地形の問題があり、南北にとれなかったとか。そのため、三種の神器によるものとなり、生命の木儀式の簡易版としての祭儀になったかと思われるのです。しかし、九州より東の本州、四国の歴史があまりにも不鮮明なのは、生命の木にまつわる祭祀や理想実現のための行動が表沙汰にならないよう、秘密にされたからと思うのです。良いことをするプランには必ず邪悪な妨害がかけられるのが常の世ですから、純粋状態の維持こそが大切。そのために蛮異の地、異界といった印象付けが大陸側にはなされていたと思われます。

九州にいる歴帝の思いは遠望として畿内の生命の木にあったことでしょう。北九州は実歴史を刻む場であり、理想は畿内として歴帝には随時に畿内の祭祀の様子が伝えられていたかと思われます。ニギハヤヒに始まる物部氏は祭祀する者として東の地に入り、もしかするとそれ以前から東テイ国に早くから祭祀官たちがいて、カバラ祭祀の魔方陣の具体的な布石を施す時間をたっぷりかけて、祭祀を稼動させていたと思われます。それというのも、表の歴史を刻む必要がないため、カバール系の工作員たちがトップの指令に従いながら自在にプランをデザインできたことでしょうから。また、大陸から優秀な土木建設の従事者を大量に招き入れて、大土木工事をやらせていたと思われます。それが国来国来のオミヅノ神話にもなったのでしょう。しかし、本当に何が行なわれていたかは、歴史の黒子カバールの所作であるため秘匿されたのです。上昇基調の時代を担ったのもカバールだったでしょう。ただし、良い側のカバールでした。

ツヌガの意味する新羅の最高官・角干は角を持つ者でカバラの熟達者・最高神官を意味するでしょう。またヒボコはニギハヤヒが生命の木の10のセフィラの賦活のために使っていた10の神宝に代るべき8つを持参。あらためてそれを各セフィラに配布する役目もあったかと思われます。彼らは修験者服に身を包んだユダヤ教徒であるところの物部氏のお仲間というわけです。しかし、大化以後はその動きに妨害が掛かります。記紀にいう、彼らが探し物を探すためにさすらったという伝承は一般人向けのものであり、神武東征の話もそれに似ていて、本当は北九州での実話だったとしても、最終的な目的地が畿内にあることをわからせるための暗号だったのではないかと解せます。誰に対してか。それは大陸にいるカバールです。

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では、ツヌガアラシト、ヒボコが少なくともユダヤ教徒であったことの証拠とは。まず歴史を遡ってみましょう。

魏書辰韓伝 辰韓の起こり
辰韓在馬韓之東,其耆老傳世,自言古之亡人避秦役來適韓國,馬韓割其東界地與 之。有城柵。其言語不與馬韓同,名國為邦,弓為弧,賊為寇,行酒為行觴。
〈辰韓、古老は秦の逃亡者で、苦役を避けて韓国に往き、馬韓は東界の地を彼らに割譲したのだと自称する。そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴と称し、互いを徒と呼び、秦語に相似している故に、これを秦韓とも呼んでいる。〉

北史新羅伝 新羅の起こり
〈新羅とは、その先は元の辰韓の苗裔なり。領地は高句麗の東南に在り、前漢時代の楽浪郡の故地に居を置く。辰韓または秦韓ともいう。相伝では、秦時代に苦役を避けて到来した逃亡者であり、馬韓が東界を割譲し、ここに秦人を居住させた故に名を秦韓と言う。その言語や名称は中国人に似ている。〉

では、秦時代の苦役の主人公 秦の始皇帝とは
秦の始皇帝は、なにゆえか魔術に特別な関心を持つ人物だったようで、側近の知識者に魔術師的な人材を多く登用していたようです。彼ら知識者は方士と呼ばれ、道教の道士にあるような修行者でもあり、仙道が道士の個人修行法であったに対し、おそらくはカバラに基づく知識(河神の図録)と修法を持っていたと思われます。おそらく河神の図録とはメソポタミアの二大河川の地に発するカバラの魔術書のようなものだったかと推測するわけですが、彼らは時の権力者が魔術に興味すれば取り入って、国ごと操りたがる元魔術神官出自の河馬流だったと思われます。

始皇帝は死後をなおも生きようとしてか、地下に地上を理想化したような地下世界を造り、天井に星霜を描き、地には山や河を造形し、河には水銀を流してそれらしく見せ、多数の軍団を揃えた兵馬俑での守護も怠りなく準備していたようです。(水銀などはカバラの錬金術の用途です)
また、不老不死の薬を求めて、方士・徐福に彼の条件を叶えて出航を許しました。徐福はユダヤ人ジョセフ(ヨセフ)かとも言われるように、ユダヤ教徒だったと思われます。しかし、彼は帰還せず、それに怒った始皇帝は、方士仲間を捕らえて死罪などで処罰したり、重い労役を課したりしたようです。これでは河馬流も取り憑く島がなく、遁走下野するしかなかったでしょう。まるでトラ(ンプ)に睨まれた河馬のようです。
よって秦役を避けて朝鮮半島にきた人々には、ユダヤ人が多く含まれていたことと思われます。そして互いに”徒”と呼び合っていたということから、ユダヤ教徒の集団だったと推測できます。その装束は、伝統が遺されているのなら、画像のようないでたちだったでしょう。まさに一本角を生やした異形の人々です。

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当初やってきた馬韓には辰韓の地を与えてくれた恩義により帰順の意を伝えていたようですが、半世紀後には南下して半島の南部に弁韓を創ります。それが後に大伽耶から任那となり、さらに日本の領有地にもなったとのこと。また辰韓から新羅となって、馬韓の後の百済とは戦さもあったようですが、日本からの遠征に降伏するなどのこともありました。これらの出来事は、ユダヤ教徒同士にとっては、戦を介しての交流会にすらなったかも知れません。後の白村江の戦もですが、戦うのは現地人に任せて、彼らは密かに気脈を通じ合い情報交換していたかも知れません。

問題は、彼らユダヤ教徒たちが日本で何をしようとしていたかなのです。それが私の推論するカバラの生命の木の活性化儀式だったと思うわけです。この活性化の極まった結果、何が起きるか。それがいまよく言われているアセンションではないかと私は推理しています。というのは、生命の木を使った白魔術のメインになる技法は、インドのクリヤヨガや中国仙道の小周天、大周天の技法と似通っているからです。古代世界共通の精神修養法が普遍していた可能性が古代の世界にはあったものとみられ、個人的修養法と同様に日本の霊的能力の向上に寄与するものだったとみられます。

しかし、大陸からの次の革命の旗手となるカバールはそこに待ったを掛けることに。カバールはタームの区切りを救世主の到来というステイタスが現れたときという観念を持っていたように思われます。今の時代もそうですよ。それがわざと作られたステイタスであっても、彼らはそれを利用したと思われます。それが聖徳太子、ウマヤドノミコでした。傑出した才能に誰もがユダヤ伝承にいうキリスト再臨を思ったかも知れません。彼は蘇我氏とともに上昇基調にあった歴史のタームを、古代祭祀を支えた物部氏を滅ぼすことにより終わらせました。そこからは下降基調の歴史が始まるべき時として、カバールの間では囁かれたかと思われます。


下降基調のタームは現代にまで及び

中国では以前から日本のこうした祭祀の実情に目をつけ、これを押さえてしまえば征服は成ると考えていたかもしれません。
大国は小国が勢力を伸長することを嫌い、何とか自国以上のものにならないように抑えつけるのが常。
そしてカバールの別プロジェクトが起動し、起こされたのが第何次目かの革命の大化の改新に始まる律令時代へのシフトでした。ここに関わるのが鎌足、不比等、天武天皇といった新日本誕生の革命児たちだったと思われます。そこから彼らの親族・則天武后(武照)の天下布武政策が起動するのです。神武、日本武尊、天武、文武、聖武そして武士の時代到来まで、武という字が際立つ歴史になりました。そう、則天武后と革命児たちは強い絆の親類だったのです。そして、今なお国家神道の柱として伊勢神宮の天照大神は不動の地位にあります。それを支えたのは神道、仏教のシャーマニズムの総力を結集した鎮護国家の総合的祈祷力だったかも知れません。


神話で形作られた世界を支援するのが神々

では、新参の神の勢力によって封印された古代神たちはどんな思いだったのでしょう。歴史の変転は世の常とは申せ、上昇基調と下降基調が交互にやってくるような歴史展開が余儀なくされているとしたら。それも、地球在来の神々が宇宙から来た神を名乗る宇宙人によって侵略を受け、彼らの後塵を拝するようなことになってしまったとすれば。その圧倒的な軍事力の差を見せられれば、新参の神のやろうとすることに従わざるを得ないのではないでしょうか。

人類を地上に下ろし住まわせるにあたって、人類の興亡、生成衰滅のシナリオが組まれたりしたとき、地球の神々もその主旨に逆らえなかったと思えます。しかし、取引と取り決めはなされたことでしょう。宇宙の神は人類の歴史のアルパからオメガまでを与える側。文明の滅びを必然とする歴史展開を要求したとすれば、それに応えねばなりません。人類は浮き沈みの展開の中で、非常な苦労をします。が、神々は侵略を受ける前の黄金時代に比して、あまりの違いに心を痛め、それを助けたくともできないでいる実情があったと推します。もし、この状況が打開できるとすれば、新参の宇宙から来た神にお引取り願わねばなりません。そのような時が来るだろうか。はい。今がそのチャンスの時になっているようです。古代神の同胞ともいうべき古代ビルダーたちが支援に駆けつけてきています。

古代神が最も辛いのが、神話による舞台演劇を神々が強制されていることでしょう。神楽舞いの効果は地上界に理念として垂迹して神話で予定されたとおりのシナリオとして結実します。たとえば、古事記の黄泉の国は、今目下の現実世界が遭遇している歴史です。死体が術師によって操られて跳梁跋扈する世相として顕われています。誰がそんな神楽を舞いたい神がいるでしょうか。イザナミ役の神は心を痛めつつ黄泉津大神の役をしています。

神話を作るのは地上界の人間。その発想ひとつで神々は神楽を舞わされるのです。所詮、地上的発想になるため、良い神話などというものがあるわけはないのですが、少しでも有情に優しいものであってほしいと願うのは誰しものことであり、神々とて同じなのです。

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神々が憤る理由は神世史の改竄と低質化にある

神話を書くのは作家の役割です。しかし、その作家は何かの故事を下敷きにして物語を組み立てるものです。本当の神世史を知って書いているわけではないのです。もしかして真伝があったとしても蘇我の滅亡と共に焼失していたりすれば、新規に編み出すことになるしかありません。また真伝を知る者がいたとしても、その中に新しい為政にとって都合よくないものがあれば、それは史書史伝紛失を理由に真逆の物語にさえすることができたでしょう。実際、神世に政変があり、クーデターによって神々が入れ替わっているといった話があったとて、新しい日本国として自立していくときゆえに、印象の良くない故事を隠蔽するといったこともなされたでしょう。

いまこの時期ゆえ、封印されていた神々の憤りの声が聞こえてくるようになっています。

碧玉の巻第10帖に、五度の岩戸閉めのあったことが書かれています。

(一度目)
岩戸閉めの始めはナギ(伊邪那岐命)
ナミ(伊邪那美命)の命の時であるぞ
ナミの神が火の神を生んで
黄泉国よもつくにに入られたのが、そもそもであるぞ

そのように書き記したのは記紀においてが初めてです。

(二度目)
次の岩戸閉めは天照大神の時ぞ
大神はまだ岩戸の中に坐しますのぞ
ダマシタ岩戸からはダマシタ神がお出ましぞと知らせてあろう

これは神話の岩戸開けがまだ叶っていないことを意味し、女神天照になっていることもおかしいという意味になるでしょう。こ れも記紀の記載に始まります。

(三度目)
次の岩戸閉めは素盞鳴命に総ての罪を着せてネの国に追いやった時であるぞ・・・
あばれ廻り、こわし廻る神では無いぞ
アラフル(現生る)神であるぞ
天ヶ下、大国土を守り育て給う神であるぞ

これはホツマと記紀の双方で、素盞鳴命は謀反と暴虐を働く神だと定義付けしているわけです。

(四度目)
神武天皇の岩戸閉めは、御自ら人皇を名乗り給うより他に道なき迄御働きをなされたからであるぞ
神の世から人の世への移り変わりの事柄を、一応、岩戸に隠して神ヤマトイワレ彦命として、人皇として立たれたのであるから、大きな岩戸閉めの一つであるぞ

これも記紀成立期の創作です。
神世を人の世に繋いだことで神世が変質したことを語るものです。
天皇は中国の最高神・天帝のこと。人間を現人神として同格にすることは、神世を汚濁多い人間界に引き下ろすことでもあります。神話でも試行錯誤し失敗多い 神々としてストーリーすることで冒涜していることになります。

(五度目)
仏教の渡来までは、わずかながらもマコトの神道の光が差していたのであるなれど、仏教と共に仏魔渡って来て完全に岩戸が閉められて、クラヤミの世となった のであるぞ
その後はもう乱れ放題、やり放題の世となったのであるぞ

仏教伝来のカナメになるのが奈良東大寺の大仏開眼です。その大仏・盧舎那仏の顔は則天武后がモデルらしいのです。というのは武后は篤い仏教信者で、中国で起こった仏教の宗派である華厳宗は、朝鮮を経て日本にも伝えられたが、日本の華厳宗の総本山は奈良の東大寺。盧舎那仏は華厳宗の本尊で、武后は自らの化粧代二万貫を寄付して、大仏の顔を武后に似せて造らせたといいます。
大陸からの干渉が則天武后に始まるなら、岩戸閉めのすべてにおいて、記紀成立期が初発であることになります。

国の守りを大事とした神道に依拠されていた日月神様(国常立神だとされています)ゆえか、憤りともとれそうな述懐、神世の歴史の隠蔽改竄に始まり、「大化」の国家体制と政道への 方針がえ、および大陸からの干渉の受け入れが、五度の岩戸閉めの原因になっていることを、婉曲的ではありながらも激しく糾弾されているように思います。
そこに蟲毒という呪詛術を大陸から持ち込んだという鎌足、不比等の真偽不明の噂も本当らしく思えてくるようなことです。それを断行した当事者は鎌足、不比等、そして則天武后となるわけですが、それぞれ縁戚でまとまり協力して 事に当たったことになるわけです。
天武天皇はむしろそのような陰謀がこれからの日本に仕掛けられたら困る側の最初の為政者でしたから、自らの名を大海人の皇子とされているように思われます。というのは海人草は今でも駆虫剤として知られる”マクリ”の原料であり、不比等らの持ち込んだ蟲毒の解毒剤になると見込んでのことだったと考えられるからです。

やや後の平安時代はバビロニア的な符術や占いが大流行し、古代政道の痕跡はその主たるキャリアのユダヤ教的装束の修験者や山人を 天狗や鬼として弾圧したことから、以来その消息が消されることになったという仮説となります。

人類史に下降基調が設定されたのが「大化」の革命だったとみられます。

 

 



参照記事

則天武后に関するツイート
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https://twitter.com/1st64503291/status/1304357991043313667

 

同ブログ記事
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