発見のきっかけ
ホツマとトンイとの共通点
前著から考察されることと新たな仮説
神世の歴史など誰がわかるのかよと思われるかもしれませんが、この酔狂な爺いである私は今まで果敢に挑戦してきました。そこに2017年のコーリー・グッドの宇宙開示情報によって、神世にもフィクションではない歴史があったはずと洞察できました。しかし、確たる証拠など提出できるわけではなく、仮説止まりの推理になります。
私は、ホツマツタエ(秀真伝)を見ていくうち、韓流ドラマの「トンイ」に似た筋書きであることに気付きました。そもそも、なぜホツマなどを見るようになったかというと、大本教系の教祖が遺した文言を、第二の彼女から聞かされていて、彼女の叶えたい望みでもあったからで、私は協力したく思いました。
それは、神世の昔に、国祖国常立神が暗殺され封印されて以後世界は邪悪にまみれるようになった。この状況を打開すれば世界は良くなるという、途方もない志を聞いていたためです。彼女が言うには、天照神も同様の目に遭っているように思うとのこと。その方たちを封印の憂き目からお救いしたいと。
彼女には霊能資質があり、私ならやれるのではないかと思ったようで、私への励ましに似た霊言を与えてくれたもので、私もついその気になったように思います。私の本体は朱雀で、この病み疲れた世を火で浄化しに来ているとか、直上のハイアーセルフは梵天様だとかのおだてに乗ったのかも知れません。
私には空想癖があり、こういう超越的な話は大好きでしたし、当時は物思いにふける時間が十分にあったため、謎解きに挑むことを志して、まずはホツマに関心を寄せたのです。古事記の神話はすでに自分なりに解読完了していたので、第二弾として相応しかろうと。しかし、原語からはさすがにしんどい。
その彼女とも喧嘩別れして数年経った頃、ネット上に口語訳版が出てくるようになり、それを元にすることにしました。
国常立神(豊受神)の崩御のあたりに、隠された何かがあるはず。要になる地は丹後の宮津。その仮宮に天照神を呼び寄せて、天成神道の奥義を授けて崩御されたため、その地に御陵がある。
まだ何も知らない頃に須田麻紗子氏の論説「伊勢神宮の内宮と外宮の関係」を見たことがあり、そこに天照神もその地に葬るよう遺勅されたため、そこに尊容は納められたとのことでした。その地には元伊勢があり、両神の御陵になる二つの神体山が存在しています。大本教系信者の彼女の話では、その地に国祖神封印の手懸りはあるはずだとなります。(実際、その地が封印の現場である証拠が見つかりました)
そこで、ホツマの粗捜しをすることになりました。筋書きのどこかに隠ぺいがあるのだろうと。国常立神は順当に亡くなられたのではない。封印の現場こそ、この地かも知れないと。不思議にもコロンボが番組の最初から最後までホシにくっつく如く、当時から撮影目的で同行したUFO撮影家のM氏のお気に入り場所にもなっていたことから、一台の車で共に頻繁に現地入りしました。
現地をよく知る人物とも知り合い、たくさんの古代旧跡を案内してもらいました。この人物こそ、後に判明する、封印された天照神の依代さんだったのです。だからでしょう、この人の協力で、とんとん拍子に謎解きが進みました。私はこのお役のために選任されて事に当たっていることを実感しました。
2014年に幾何学的な証拠も得られ、天照神の御陵になる岩戸山(日室岳)が封印場所そのものと判明。また翌年にネットから、ヘミシンカーの方の2012年のアストラル界探訪で、ここに封印された古代三神が絵で示されているのを発見するという、不思議がシンクロしていくような展開になりました。
実際、近年まで国祖神級の神々は、そこに封印されていたと推測されます。今でも岩戸開けを待望する声あるは本当と思います。
ホツマに描かれるような順当な崩御ではない異変が有り得たはずなので、ホツマがすでに真伝の改竄になっていると見ました。ホツマの成立はいつ。記紀との関連はどうなのか。
オシデ文字で書かれた文書は主流の表記ではなく暗号化されているかのようです。表からは意味不明にされている。しかし、訳を見ると、韓流文官の手になるかのような記載がある。天照神は幼名をウヒルギといい、朝鮮語の発音を偲ばせています。これは宇・日・貴で天空の日の貴神を示しています。
また丸く白い卵のような異形で生誕したとのこと。まるでコーリー・グッドが言う高次元球体存在のような感もあります。また天照神は十二人の妃を擁する男神で、まるで太陽を中心とした黄道十二宮を基にした感があり、カバラの占星学らしくあります。エジプトやカルデアの流れを汲むというユダヤ神秘思想カバラの痕跡でしょうか。
キャリアーとしての民族と思想の運用主体者としてのカバールが古代からいたのでしょう。古代にもカバールがいたからこそ、畿内に生命の木の図象あるを事前に知っていて、倭の直接的な畿内大和侵攻もあったのかも知れません。途中の中国四国地方のほうがよほど温暖で肥沃ですのに逗留して根拠したという伝承はありません。
ホツマとトンイとの共通点を挙げると
王様と妃(候補)との制度の分限を超えた恋愛です。
朝鮮王朝という地上での話なら、それも有り得たで済ませますが、折り目正しい神世でそれはどうなんでしょう。しかも神々の王であり最初の民の指導者である天照がその則を超えているのです。絶対にありえないことと私は思います。
トンイでは、后に子が授からず、妃が世継ぎを争うようになり、政変を企てた妃のヒビン一派が捕えられ処刑されました。ヒビンが処刑されて亡き後、トンイのはからいで早生まれのヒビンの子に王位を継がせ、トンイの子を後にするという美談になるのですが、ホツマの場合は政変企図者の持子の息子は世継ぎ資格剥奪の上左遷。早子は持子の妹で同じ北局にいて主従で共謀したとされ遠投の処置。政変は未然に防がれ落着したことにしていました。
持子早子は遠投先で刺客に追われ逃げ場を転々として非業の死を遂げ、怨み募らせ九頭竜や八俣大蛇になったとされています。共謀したスサノヲは死刑になる寸前に助命。儒教思想によるのか、王の子や弟であれば、男子を理由に助命されているようです。ここでトンイに相当するのはホツマでは瀬織津姫です。
ところが、ホツマは何の手抜かりでしょうか、政変企図したとされる持子早子の父親クラキネの慙愧の言葉を書き残していました。政変は冤罪であり、結果、娘たちは非業の死を遂げ、早生まれの持子の子・穂日が世継ぎ候補第一だったものを資格剥奪されたと怒っています。
そのときタナヒトという世継皇子に付けられる名から、ヒトを取り除き、瀬織津姫はその子・オシホミミになかったヒトをつけてオシヒトにしたと、その策謀の凄まじさを語らせているのです。そういえば、皇子でありながらオシホミミだけ日という名が最初から含まれていませんでした。当初から世継ぎ候補から外されていたのではないかとも思えます。なぜでしょう。
だから、その処遇に不満を持った瀬織津姫側が政変を起こしたのではないかというのが拙推理です。それはまんまと成功して、事情に通じた宮中ではその行いが恐れられたに違いなく、その後の口封じの過激さとセットになり、庶民に知られてはならないこととして、隠蔽されたのではないかと思うわけです。
真伝がもしあったとすれば、史実がありのままに書かれていたのでしょうが、ホツマは秀真とも書かれるように、真実よりも優れた創作品という意味が見て取れます。そして、各段の表記「あや」とは、大和言葉を理解するものなら、綾、過ち、誤り、妖しいの語源であることから、マガ(禍)と同義に捉えられることでしょう。
また、瀬織津姫は別名・八十禍津日(ヤソマガツヒ)ともいい、これならイザナギが黄泉の国で負った穢れそのものを表わす神名になります。これは訳者の本居宣長をして、とんでもない両義の神であると嘆息させたようです。また瀬織津姫は、ホツマ作者からすれば、さわやかな渓流を意味するとのことですが、名の意味する瀬を幾重にも折った流れとは淀みと滞りの多い下流の形容です。
大和言葉を理解していれば、作者の説明に異議も出るはず。つまり制作当時から、作者は虚構であることを知ってもらいたかったのかと思われます。そして事態の隠蔽を完全にしてしまうのではなく、逆賊側に真相を語らしめて、あとはこれを読む者が、どのように解読するかに任せることにしたのでしょう。
神世政変の真相を知る誰かによって、地上に幾つものヒントが示されていたとしか言いようがありません。私はホツマは記紀に先立つ、神話改変のための叩き台になった資料と見ました。日本統一の金字塔・律令時代を見据えての改変です。そこには、神世に政変ありといった瑕疵が含まれてはならなかったのでしょう。
日本は純粋に大元の神から王権神授された王族による統治でなくてはならなかった。神武天皇の伝説では飛騨の位山で両面宿儺(梵天?)が天皇位を授けたともいい、杓には位山のイチイの木が使われたとか。革命的大改革を示す「大化」のときこそが、新規一転の神話作りが計画された時期だったと解します。
さて、なぜホツマとトンイに共通項が多いのか。トンイの制作者によれば、李氏朝鮮王朝史が基になっているのことでした。しかし、李氏朝鮮といえば1392年に始まるとされ、645年の大化の改新とはかなりずれがあります。もしかすると作者は李氏の起こしたさらに旧い王朝伝承を参考にしている可能性があり、私はそれを探ることにしました。
すると中国の李氏王朝がすぐに見つかりました。そこで誰か有能で王にまで上り詰める人物は、と見ると則天武后がいました。武周の女王にまでなった方です。彼女の事績が現代ではトンイさらには古代にはホツマの瀬織津姫の伝承として遺されたのではないかと。
そんなとき、すごい本に出会いました。”もう一人の「明治天皇」箕作奎吾(水原紫織著)”です。
その中に唐の則天武后の話が載っていました。武后の旦那さんは李治といい唐の第三代高宗だという。その後、李朝は何代か続きます。そして則天武后の業績を見て私は驚き畏れを為しました。なんという恐ろしくも残虐な。西太后の過去世版かと思うほど。中国の王朝史というのは、たぶんどれもこれもこんなふうなのかと思うほど。儒教が栄えたとはいえ、王族特に女系の確執のすさまじさは怨念に満ちて凄まじいと思えました。
それを見れば、トンイではなくホツマの場合に似ています。
ホツマでは瀬織津姫は許しと寛容を以てする心優しいお方として作者は形容しています。しかし、こと政変企図者の持子早子には不寛容極まりなく、遠投先で刺客に襲わせるなどして脅かし、非業の死を遂げさせ、それぞれ怨みのあまり九頭龍や八岐大蛇といった妖怪大蛇へと変じたとされています。
いっぽう、則天武后も追い落とした王后に更にウワバミ(蛇)との烙印を押し、高宗の第一子を生んだ劉氏にも梟の烙印を押し、その子は左遷。天照の第一子である穂日も中津国に左遷され、第三子のオシホミミが世継ぎとなりました。おそらくホツマの瀬織津姫の原型は則天武后ではないかと推断しました。
水原氏の考察はどんな名探偵でも顔負けするほどの考え方を提供していました。
能の演目「海人」の筋書きと暗号のようにして出てくる言葉へのユニークな解釈にはびっくりしました。ここまで洞察できるのか、と感嘆しましたね。
詳細は同著をご覧になってください。私はそこから推理を深めてみました。
それによれば、藤原(中臣)鎌足の早い頃の子女が唐の高宗に嫁いで、後の則天武后になった。
則天武后の息子が赤子のときに日本に届けられて、後の天武天皇になったとのことでしたが、赤子の身で海を渡らせることはないだろう、英才教育を十分に施して屈強な若者になってからでも、武后の子は武后の子。その人物の仮説も織り交ぜました。天武天皇・サチヤマ説です。
(ただし武后の初期の子であって、高宗の子ではないだろう。父の太宗の後宮に14歳で初めて入ったことから、太宗との子ではなかったろうか。宮中に知られれば殺すしかないところ、武后のたっての頼みもあって、然るべきところに預けられ教育を施されたかと思われる)
いっぽう送り届けられた武后の子には彼が何歳であっても、武后の兄弟となる藤原不比等がバックに就いて天武天皇としての統治に道を開いたことが推測されます。
武后は、息子の天武天皇に倭から日本への国名変更を要請し、天武はそれに従った。
武后は武の家系による日本の統治を目論み、新国家体制への刷新を強く天武に要請していたかもしれない。
天武は神武に始まる何代かの天皇に”武”の名を付けている。
そして夫の高宗が自称した”天皇”の名を語れと。
そのために由緒ある神々に連なる王権が正当となる神話作りを要請。
このため、日本の正史の編纂が重要になり、蘇我氏滅亡のときに国書など重要書類が焼失したことで新規巻き直しが可能と判断され、史類や伝承の改変が大胆になされ、叩き台のホツマなどを基に武后を最高神に据えて、神話を大きく改変するに至ったものと推理しました。それが記紀になったと。
ホツマは真伝を基に改稿され、中央集権政治に都合よく新訂され、神世の政変は未然に防がれ何事もなかったと、対外的に体裁よく見せる工夫も施されました。
実際は、武后がやった冤罪作りと他家の追い落とし、それを見せしめにして諸官を黙らせた恐怖手法が、作者をして瀬織津姫に忖度して描かせたと見ます。また監修に当たる天武天皇への忠誠も示さねばならなかったでしょう。
ホツマでは瀬織津姫の采配は天照を凌ぐほど如才なく描かれ、天照の存在感が薄いほどですが、武后が病弱な高宗をリードした権勢について物語っているでしょう。これを誰しもが見れば、瀬織津姫への評価は高まるに違いないと思われます。そのうえでホツマは記紀編纂時の叩き台に供されたのです。
その一方で、日本古来の神々の試行錯誤する姿を描き、日本以外の大陸系の神々との優劣をつけたふうもあります。独立した日本独自の主張は、おそらく中東由来の知識にあったのでしょう。それは天津神である宇宙の神(権化としての宇宙人やUFO)からの贈り物として事詳細をなるべく期して、神名に網羅されるべく図られています。
こうして成立した神話は、それまであったどんな神話をも無用のものとし、むしろ隠滅の対象とされたことでしょう。このため、諸家が持っていた史書は神話を主体に隠されねばならなくなり、近年に至って思わぬところ、農家の天井裏などから見つかるようになったと見られます。
前著の通り、則天武后が天照大神になったのであり、ホツマでは瀬織津姫であったのです。いっぽう男神天照は高宗のように精彩がなく、記紀ではその先代のイザナギ、イザナミのときの女先立つはよくないという訓戒があるにもかかわらず、女神へと変更されました。考慮に値しなかったのでしょうか。
いいえ、そんなことはありません。中国史上で起きた歴史的事実に基づいた別の要件が加味されているのです。それは武韋の禍を鎮めた玄宗の事績を踏まえたのちの記紀への繰り入れだったとみられるのです。しかし、奉納期限が大事で、天武天皇の厚志もあり、大勢を変更することまではしなかったのでしょう。